コラム:イラク元大統領と本紙の立場
2007年12月19日付 al-Quds al-Arabi 紙
■ サッダーム・フサイン一周忌に寄せて
2007年12月19日付クドゥス・アラビー紙(イギリス)HP1面
【アブドゥルバーリー・アトワーン(本紙編集長)】
驚く人もいるかもしれないが、私はサッダーム・フサインのインタビューをした事がない。人を介して度々個人的に招待されたが断ってきた。最後の招待は、今次のアメリカによるイラク侵攻の数ヶ月前であった。
招待を受けなかった理由は幾つかあるが、最たるものは、私が編集長をしているこの新聞と優秀な同僚達の仕事に対し、イラク大統領から資金援助を得ているという疑惑がかけられていたためだった。それというのも本紙は、イラクとアラブ共同体に対する米国の陰謀に早いうちから、つまりクウェイトを餌にイラクを挑発するという事が行われていた当時から、注意を喚起してきた数少ない新聞の1つだからである。そのため、イラク政権が潰れたら一日ともたないなどと本紙を謗る人もいた。バグダードへ行き、大統領と握手なり抱擁なりを交わしてテレビ出演などしようものなら、直ちに本紙は、合衆国が巨額を投じている悪質なメディア・キャンペーンの標的となっていただろう。
もう1つの理由としては、当時のバグダードが、機に乗じて己の利益を得ようとする人々で溢れかえっていたというのが上げられる。もちろん、イラク国民と連帯し、彼らに科せられた封鎖を糾弾するために馳せ参じた真のアラブもいた。そういう人々の名は、石油利権リストには含まれない。リストに載っている人々を攻撃せず、旧政権の側についた人々のみを糾弾するというのは恥ずべき行為である。旧政権は、イスラエルとの国交正常化を良しとしない事によりアラブの大義を保ち、イラクのアラブ的性格と国としてのアイデンティティを守ったのである。一方で、CIAから資金を得、祖国に対して謀反を企んだ人々を賞賛する事などできようか。
我々の立場は、包囲下にある親愛なるアラブの人々と共にあり、それは利己心に発するものでもなければ、個人的、あるいは党派的関係の上に作られたものでもない。アッラーに誓ってこの由緒正しい共同体に誠実である。自由に心安らかに、我々がこれらの言葉を書けるよう、私はバグダードへは行かなかった。
故サッダーム大統領の思い出によせ、この機に本紙の嫌疑を晴らす4つの事実を、常に我々と共にあってくれる読者に向け記す。
1.イスラム革命下のイランに対し戦争をしかけたイラク政権の立場を私は支持しなかった。アラブもイランも共に弱体化させようというアメリカの戦略の中で、その戦争は内輪もめに過ぎないと信じていたからである。当時ロンドンのイラク文化センターで、サッダームを讃えるテレビ番組が作られ、参加者はファーストクラスでバグダードへ行けたりしたものだが、私はそれに参加しなかった少数派の1人である。
2.ジョージ・ブッシュ父がクウェイトを訪問中、暗殺未遂に遭ったとの発表が成され、その直後バグダードは米軍の激しい空襲に晒されて著名な女性イラク人アーティストを含む市民数百名が犠牲になった。その際、元駐英サウジ大使が私に連絡をよこした。アラブ共同体支持者として知られる人物であり、クウェイト解放というお題目でイラク攻撃を支持した自国の政策に反対して辞職し、その隠遁地からの電話であった。元大使が言うには、米英のテレビ局が、米軍の攻撃についてのコメントを求めて私に接触してくるだろうから、次のように言ってほしい。「暗殺事件の捜査も始まらない内から、その領土内で事件が起きたクウェイトは誰も逮捕しておらず、イラクにも他のどの国にも嫌疑を向けていないというのに、どうやって判決を出し、それを実行して市民数百人を殺す事ができたのか?民主主義、独立、人権尊重といった事を語る彼らに、どうしてそんな事ができるのか?」彼の言葉どおり、CNNがライブ出演してくれと言ってきた。名前は失念したがアメリカの大物政治家も呼ばれていた。その場で私は元大使の言葉を一字一句そのまま伝え、ご存知のとおり情熱的で攻撃的な私の意見も大いに述べた。
数年たち、ある友人から、当時の駐イラク・パレスチナ大使の話として以下が伝えられた。サッダーム・フサイン大統領は、ターリク・アジーズ氏を傍らに件のCNNの番組を見ていた。そして、アジーズ氏に「これ(私)はイラク人か?」と訊ねた。アジーズ氏は否と答え、ロンドン在住のパレスチナ人であると説明した。すると、「我々のグループの者か?」との問い。つまり、アラブ解放戦線のように当時イラクに忠実であったパレスチナ組織の一員か、という意味だ。再びアジーズ氏は否定し、説明した。「その新聞に我々は金を出しているのか?」というのが次の問いであった。また否定したアジーズ氏は、本紙がイラクに入った事は一度もないと述べた。サッダームが机を叩いて言うには、「我々の側ではなく、金も出していない新聞がこのような立場をとるとは」、そして、その立場に関する評価をアラファト大統領に伝えるよう、アジーズ氏に命じた。
3.イラク侵攻、占領、そして大統領が身を隠して数日後、私は光栄にも彼の直筆になる書簡を受け取った。イラク国民とアラブ共同体に呼びかけるものであり、占領に対する抵抗開始を宣言していた。それによれば、大統領は2年前から抵抗に備え入念に計画しており、要員の多くを訓練し、5千万点に上る武器、数百万トンの弾薬を残していたという。それらの書簡を本紙で公表したところ、各方面から嫌疑が寄せられ、サンデータイムズ紙が英国の筆跡鑑定家を経て本物だと保証するまで信を得なかった。本紙のファックスに届いた書簡は、未だに我々が保管している。
4.元大統領の処刑執行から数日後、彼の弁護士であったワドゥード・ファウジー・シャムスッディーン氏から、私宛に電子メールが届いた。故大統領から個人的に伝えて欲しいと託されたメッセージがあるとの事で、それを聞くために、指示通りアンマンに電話した。処刑前の大統領と3時間以上に渡り面談したという同氏は、「米侵攻に遭ったイラクとその国民を支持してくれた私の立場に深く感謝する、私のような人物を有するウンマ(アラブ共同体)は不滅である」という言葉を伝えてくれた。このメッセージに深く感激し、父の死にも泣かなかった私だが、実は涙がこぼれた。故大統領が、このメッセージを出来るだけ早く伝えるようワドゥード氏に強く依頼したと聞かされては、尚更である。
大統領の死から1年、占領から5年が近づいているイラクは、未だ占領下で引き裂かれ、国全体が宗派主義の民兵や殺人集団に支配される集団墓地と化しつつある。イラク侵攻を最も望み、解放の瞬間を最も祝福した一人であるアフマド・チャラビー博士は、昨日シャルク・アル=アウサト紙との談話で、米軍が解放軍から占領軍になってしまったと述べた。ついでながら、3年前チャラビー氏は、ロンドンの本紙編集部まで人を送って、「サッダーム政権と貴紙の繋がりを証明すべく、10名の要員を雇ってイラク諜報機関の書類を調べたが何も発見されなかった。故に謝罪する。」とのメッセージを伝えてきた。
解放以来、150万のイラク人が命を落とし、5百万が、内3百万は国内で、難民となった。今も日々残虐行為が続いているというのに、誰も、特に前政権に対する中傷キャンペーンに携わった人々は、何も言おうとしない。光の街、バスラでは50人もの女性が処刑された。場合によっては子供も一緒に。頭を覆っていなかった、あるいは宗派、宗教の違い、という理由で。宗派の違いで引き離される夫婦という話も枚挙に暇が無い。
イラク人がアルビルやスライマーニヤを訪れるのにビザが必要になった。賄賂やコネを使ってビザを手に入れても、数ヶ月間の滞在にはクルド人の保証人がいる。近い将来、バグダードの人間がバスラで働くのに労働許可が、あるいはモースルへ行くのにビザが必要だと言われても、我々は驚かないだろう。サッダームは禁忌を犯し、ハラブジャで化学兵器を使い、反体制派を拷問し、人権を侵害した。これらは全て糾弾されるべき行いである。しかし、新しいイラクの為政者は何をもたらしただろうか。マーリキー政府は、ナジャフで虐殺を行ったのではないか?内務省はその収容所で拷問を行っているのではないか?アブー・グレイブ収容所で最悪の拷問を、アル=カーイムやファッルージャで化学兵器を用いたのは、文明的なはずの米軍ではないか?
サッダーム・フサインのイラクは断じて民主的ではなかった。しかし、今日のイラクは民主的だろうか?国際機関の報告によれば、世界で最も腐敗しているのがイラクという国ではないのか?新生イラクから盗まれた500億ドルが何処へ行ったのか、解放の騎士たちにどれだけ金がかかったのか、調べるにはロンドンへ来なければならないというのも無理はない。
(かつての)イラク反体制派、特にイスラム主義者らは、米諜報機関に支援されたクーデターで政権についたとして、サッダーム・フサインをアメリカのエージェントと糾弾してきた。では、アブドゥルアジーズ・アル=ハキーム、アル=ジャアファリ、チャラビー、マーリキー、アーディル・アブドゥルマフディ等々の人々は、どうやって政権についたのか?彼らはイスラムという戦車に乗っていただろうか?
サッダーム・フサインは、スイスに秘密口座を残さなかった。ヨーロッパのシャトーも南仏のヨットも彼にはない。彼の家族は、イエメン、カタル、ヨルダン、リビアでそれぞれの政権の温情により住むだけで良しとしている。一方で、新イラク為政者の子弟らは、腐敗した習慣、密輸される石油、不正な取引、及び米情報機関の資金から得られる数十億をもてあそんでいる。
現下の情勢にあって、サッダームは、恐れる事なく絞首台へ向かっただけではなく、ウンマの敵に屈する事を拒否し、誇り高い人々に加わったアラブ指導者として歴史に残る事となったと言える。彼の最期の言葉はウンマの栄光とパレスチナの大義を謳っている。
バグダードのグリーンゾーンに滞在し、その外にいる自分の家族を訪ねようとしたら、危険だからやめた方がよいと言われて衝撃を受けた人がいる。ウンマに属しその価値観と道徳を保持し、その歴史から学んでいた限りにおいて、我々は決して宗派主義者ではなかったのに。
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( 翻訳者:十倉桐子 )
( 記事ID:12698 )