イスタンブルに残るイタリアの相貌
2008年02月11日付 Zaman 紙

19-20世紀にイスタンブルで過ごしたイタリア出身の建築家、画家、音楽家、知識人がこの魅惑的な街におこなった貢献が『イスタンブルにおけるイタリアの足跡』という名前で本となった。その本では、ドニゼッティ・パシャからダロンコ、ゾナロからカノニカまで多くの人物を扱っている。

イスタンブルの街中で心を奪う風景のひとつガラタ塔、イスタンブルっ子が落ち合う場所タクスィム広場の共和国記念碑、興奮が覚めやることのないベシクタシュ・イノニュ・スタジアム、「失われたモスク」として知られるカラキョイ・メスジト、さらに多くの歴史的建造物にイタリア出身の芸術家たちの関わりがあるといえば、どうですか?いくらか耳を傾けたくなるこうした知識は、皆さんが毎日通り過ぎている建物のちょっぴり驚きで楽しいお話に誘います。

研究者にして著述家のブルチャク・エヴレンは、編んだ『イスタンブルにおけるイタリアの足跡』という本で、七つの丘をもつ街の斜面に隠れたイタリア出身の建築家、画家、音楽家、知識人の足跡を辿っている。19-20世紀にイスタンブルを訪れ、足跡を残したイタリア出身の芸術家、知識人の中には、名声が世界をめぐった多くの人物がいる。音楽家ドニゼッティ・パシャ、建築家ダロンコ、画家ゾナロ、彫像家カノニカ、薬剤師オットーニ、医師ヴッチーノといった。ガラタ橋、金角湾橋建造を実現できなかったレオナルド・ダビンチ、ミケランジェロは、その命運が何であれ単にイスタンブルを遠くから慕うにとどまった。大半が収蔵品から選別された作品により編まれた『イスタンブルにおけるイタリアの足跡』は、著名な絵、像、様々な協会建物、薬剤所を通じて、イタリア人がトルコ文化に果たした貢献を説明している。

フェローリ社により作成された本書では、読者に造形物の他にアフィフェ・バトゥル、アフィフェ・マト、エムレ・アラジュ、メルト・サンダルジュ、ミシェル・ニコラ、ヌラン・ユルドゥルム、オスマン・オンデシュといった知識人、著作家の文章を掲載している。

征服者スルタン・メフメト2世とともに開始した、トルコ人とイタリア人の間の芸術面での接近は、19世紀以降イスタンブルに多数芸術家が訪れることで、一層増すこととなった。宮廷画家・音楽家として想起される多くの人物が訪れた。スルタン・アブデュルハミト2世が「帝室画家」の称号を授けたゾナロ、「目に映ったものを描く画家」として知られるプレツィオージ、オスマン軍楽隊で教育長を務めたドニゼッティ・パシャ、さらに多くの人物…。

イタリアの画家は、芸術愛好家の間でごく僅かな関心を呼んだ。翻って建築家に目を向ければ、今はなきナウム劇場、カラキョイ・メスジトを悲しむことで十分である。スルタン、政治家、富者が頻繁に集う場所であったナウム劇場は、壮麗な造りとその演目によりイスタンブルをヨーロッパ有数の中心地とした。劇場は今日のチチェキ・パサジュのある場所にあった。度重なる火事の後、いまは傍らの小路に名前を残すのみとなった。

建築家ダロンコが築き、「失われたモスク」として知られるカラキョイ・メスジトは、1958年にイスタンブルの景観を変えることを目論んだ破壊により急に姿を消した。昨年ペラ博物館で開催された「オスマン朝の建築家ダロンコ 1893-1909 イスタンブルでの建築活動」という展示会で、要望があれば、その再建がおこなわれうるとの話題があがった。だが要人からこの試みにいかなる声もあがらなかった。

音楽はといえば、スルタン・マフムート2世が設けた帝室軍楽隊の教育長を務めた作詞家ドニゼッティ・パシャに見える。オルハン・パムクがノーベル賞を受賞する際、行進曲を奏でたスェーデンの楽団が長年ドニゼッティの曲を演奏していたことを考えるに、彼の価値はいや増すのである。

トルコ語とイタリア語で出版された同書には、音楽研究家エムレ・アラジュの「オスマン宮廷におけるヨーロッパ音楽」というタイトルのCDも付属している。ロンドン・オスマン宮廷音楽アカデミーが演奏したそのCDには、宮廷に仕えたイタリア・オーケストラの指揮者グアテッリ・パシャやドニゼッティ・パシャのほか、スルタン・アブデュルアズィズ、スルタン・ムラト5世作曲の何曲かが含まれている。この魅惑的な街に足跡を残したイタリア人たちのことを学び、彼らの作品を見ることは、僅かとはいえイスタンブルの秘密に近づくことを示しているのである、秘かに…。

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( 翻訳者:清水保尚 )
( 記事ID:13103 )