教科書に出てこないチンギス・ハーン―映画『モンゴル』批評
2008年03月16日付 Radikal 紙

Radikal2(日曜版)掲載

「600点の遺物からなる展示の一方で、我々は中学のトルコ史の教科書で我々が習ったモンゴルに関する知識を再点検しなくてはならない。なぜなら、展示で我々が目の当たりにすることになるのは、我々が知っていた突撃一辺倒の帝国の姿ではないからである。」マフムート・ハムスィジは、昨年サクプ・サバンジュ大学博物館で開催された「チンギス・ハーンとその後継者たち―大モンゴル帝国―」展をこう評したのだった。どうやら、この件についての私たちの先入観は非常に根深いもので、ハーンの青年期を取り上げ、今週末公開されたセルゲイ・ボドロフの映画『モンゴル/ジェンギズ・ハン』(*)も同じような強い印象を[心に]残す。

そもそもボドロフの映画は、たとえ他のどの支配者をテーマに取り上げていたとしても、強い印象を[観る者に]残し、私たちの先入観を揺さぶったかもしれない。なぜなら、映画は、チンギス・ハーンの戦士としての英雄性に終始している訳ではなく、戦士の心の動きを丹念に描いている。これは、映画の題名がトルコ語に『ジェンギズ・ハン』と翻訳されたことで理解されるであろう期待には応えないかのように見える姿勢である。しかし、この作品が興味深いのは、監督セルゲイ・ボドロフが一方では戦士の心理状態の根底に横たわるものを明かしながら、一方では叙事詩的映画にとって不可欠な壮大なシーンをも十二分に作り上げていることである。叙事詩的映画には、一定の割合でナショナリズム、自己犠牲的な大演説、そして「独立」の叫びが含まれているが、そのことに慣れっこになっている向きを唖然とさせるのも無理はない。

けれども、このような驚きは、右の頬を見せたら左をぶつような態度に、あるいは観客の期待とゲームをするような実験性を目指すことに由来するものではない。戦闘シーンではごく当たり前のように血が流れる。我々の普段の生活では想像もできないような流血シーンがあるからといって、それが必ず『キル・ビル』の子供っぽさと重なり合っているわけではない。ふたつの大軍は、大会戦のために双方が距離を詰める際に、広大な平原の壮大さを[決着の場として]選ぶことはできる。しかし、広大な平原であれば、決まって戦士の魂がかきたてられるというわけではない。『ジェンギズ・ハン』は、こういった可能性を実現させた大作である。

■誰よりも優秀で偉大、それでいて、ひどく繊細

カザフスタン、モンゴル、ドイツ[+ロシア:訳者]共同制作で、今年の外国語映画部門のオスカー候補であった『ジェンギズ・ハン』は、偉大な地位を危険にさらすような選択をしている。我々が知っている派手なチンギス・ハーンになる前のチンギス・ハーンの状況を、つまり、まだテムジンと名乗っていた頃をテーマに取り上げている。少年時代のテムジン(彼の幼少期はオドニャム・オルレン、成人期は日本人スターの浅野忠信によって生命が吹き込まれた:原注)が、ハンである彼の父によって彼[テムジン]の妻を選ぶために近隣の部族に連れて行かれるシーンによって物語が幕を開けるのは、まさにどのような筋でこの映画が進んでいくのかについてのヒントだ。テムジンは、権力の座を強制的に追われた父の後を継ごうとする。しかし彼の苦難の生涯はその途上で度々躓きをもたらすだろう。こうして、監督には、まさに戦士としての英雄性の根底にあるものを浮かび上がらせるチャンスが出てくることになるはずだ。

なぜなら、テムジンが父の跡を継ごうと苦心する中で経験したことや、後になって明らかとなる「偉大な」戦士の内面にあるひどく繊細な部分を常に持ち続けていたために、我々の前には、「独立」のために命を賭けて戦ったひとりの人物以上のものが現れるからだ。チンギス・ハーンはあらゆる英雄にまつわる決まり文句の二面性をも備え持ったひとりの人間なのだ。

では、この裏返しの状況は、映画の壮大なスケールを抜きにして成り立つものだろうか?壮大なスケールの叙事詩的映画の観客にとって心動かされる箇所は、戦闘シーンの興奮のみが相応しいのだろうか?映画史家のトム・ガニングは、初期映画を、初期映画以後の物語映画と区別する一方で、ショックの問題を[他の要素とは]別に重要なものだとしている。そして、初期映画の観客にショックを与えることを目的とした壮大さのことを純粋映画と評している。このような純粋映画の興奮に今日相当するものとして、CG効果によって(コンピューター環境によって作り出された効果によって:原注)観客にアミューズメント・パークにいるような気分にさせようとするブラッカイマー・メゾットの興行的成功を思い浮かべる人も中にはいるだろう。

ボドロフの『ジェンギズ・ハン』を、ブラッカイマー・メゾットによる興行的成功なのだと決め付けるのは間違いだ。けれども、結果的に(チンギス・ハーンという)取り上げた歴史上の人物性のゆえに、観客に壮大な期待を抱かせ、作品について色々なことが考えられ、お金を使わせた優れた作品である。

更に言えば、戦闘シーンが単に壮大であるばかりではなく、激しいものであることも注目に値する。では、一体どのようにバランスをとっているのだろうか?どのようにかというと、『ジェンギズ・ハン』のあるシーンでは英雄を戦士たらしめたいくつもの理由について丹念に描く一方で、別のシーンでは剣と盾をを手に格闘する壮大さに我々は目をみはるのだ。問題が純粋映画の興奮ということであれば、それは叙事詩的映画の戦闘シーンに対して覚えるワクワクドキドキ感と異なる点があると果たして言えるだろうか?

スタンリー・キューブリックは、映画『バリー・リンドン』での有名な合戦シーンで用いたテクニックによって観客をアッといわせた一方で、戦闘シーンの壮大さに自らの身を任せてはいなかった。ジャン=ピエール・ジュネは、キューブリックの反戦映画『突撃』[原題Path of Glory/トルコ語題Zafer Yollari]にインスパイアされた映画『ロング・エンゲージメント』[原題Un long dimanche de fiançailles/トルコ語題Kayip Nisanli]で、戦争の悲惨さをレトロな美しさと溶け合わせつつ、戦争が壮大さを与える手段以上のものであることを目指していたのだった。最後に『贖罪 つぐない』[原題Atonement/トルコ語題Kefaret 日本では2008年春公開予定]における砂浜のシーンは口あんぐりの妙技によって、(それらとは)異なった方法で観客の目を釘付けにしていた。

これらの例はどれも、本来戦争をテーマとする映画の壮大さが、ヒーローたちが戦っているときに覚える感情とは別の部分からも生じうることの証しだ。鑑賞必須の『ジェンギズ・ハン』が示しているのは、戦闘シーンが、必ずおきまりの独立や愛国についての演説によって下支えされねばならないわけではない、ということだ。なぜなら、観客が目をみはる壮大さの源は明らかに、それとは別のところにあるのだから。


(*)映画『モンゴル/ジェンギズ・ハン』
日本国内では『モンゴル』との邦題で2008年4月5日公開予定ですが、映画そのものとチンギス・ハーン個人に対する言及を区別し、原文との整合性を維持するする意図で、映画名についてはトルコ語音写の『ジェンギズ・ハン』とし、それ以外については、日本語で一般的と思われる「チンギス・ハーン」(およびトルコ語音写の「テムチン」ではなく「テムジン」)と表記しました。(文責:長岡大輔)

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:13396 )