没後11周年のアルプアルスラン・テュルケシュ、追悼式典が行われる
2008年04月03日付 Hurriyet 紙

民族主義者行動党(MHP)を設立者であり党首でもあったアルプアルスラン・テュルケシュのことが没後11周年に墓所で催される式典で追慕されるだろう。

アルプアルスラン・テュルケシュのための式典は明日10時30分に、MHPのデヴレト・バフチェリ党首と党幹部が参加して墓廟にて行われる。

霊廟で行われる式典の後、テュルケシュの名の下で準備された「アルプアルスラン・テュルケシュ大賞」という名称の研究・調査と論文コンテストに対する受賞式典がおこなわれる運びとなった。授賞式典はバフチェリ党首も参加して午後3時にMHP中央会議室で行われる。

■ 歴史に名を残した

テュルケシュは、1936年にクレリ軍高等学校、1938年に士官学校を卒業し、1939年に陸軍少尉の階級で射撃学校に入学し、中尉になって卒業した。1940年に結婚した。また軍事大学校に入学し、1944年、大尉だった時にニハル・アトスズと一緒に「人種主義・汎トルコ主義」裁判で実刑判決を受け、9ヶ月と10日間の禁固刑が言い渡された。1945年に軍事裁判所の決定によって釈放され、1947年に無罪判決が下り、軍隊に再び戻った。1948年に軍事大学校を卒業した。その後、アメリカに派遣され、そこでアメリカ陸軍士官学校を卒業した。1955-1957年の間、ワシントンのNATO常設委員会でトルコ参謀本部代表団の任務に就いた。同時に国際経済を学んだ。1959年にドイツの原子・核兵器学校に派遣され、卒業後、陸軍大佐に昇進し、陸軍総司令部NATO担当部局長に任命された。

1960年5月27日クーデタの直前にエラズーの部隊からアンカラに転任し、陸軍中将のタラート・アイデミルの提言で国民統一委員会(MBK)に入れられた。クーデタを計画、実行準備していた37人のMBKのメンバーのひとりであった。

■ クーデタの声明を読み上げた

クーデタの声明を1960年5月27日(金)にラジオで読み上げた後、テュルケシュの名前は広まり始めた。その日以降、首相府事務次官職に就いた。テュルケシュは、この頃MKB内部での見解の相違の結果、1960年10月13日ほかの13人のメンバーとともに職務から「放免され」、トルコ政治史上で「14人」として命名され、政権が民政移管されることに反対したグループのリーダーとなり、MBK内部の将校団によって「祖国を国家社会主義のシステムに導いている」とされ、1960年9月22日にMBKから除名された。そして、正式に退役させられ、ニューデリーの大使館の参事官としてインドに派遣された。この放逐の間、MBK議長のジェマル・ギュルセルに、高等司法審議院が下した判決でアドナン・メンデレス(元首相)とその同朋が処刑されるのは間違っているという内容で、『国民の道』という雑誌に掲載された手紙を送った。

25か月ほど後の1963年2月23日に(ギリシャの)ギュムルジネ方面から入国した際、そこで多数の「民族主義集団」が迎え入れた。

■ 政治活動の開始

公正党に入党するようにとのギョクハン・エヴリヤオールの提案を拒んだテュルケシュは、民族主義者たちを糾合するために、1963年5月2日にトルコの安寧と向上協会を設立した。クーデタを企てていたタラート・アイデミルとフェトヒ・ギュルジャンの2人と関係を設けた。しかし、タラート・アイデミルとは決裂した。このためクーデタの情報を政府に漏らした。テュルケシュ自らもクーデタを企てていたため裁判にかけられたが、クーデタを政府に知らせたために無罪放免となった。彼は、放逐中、「14人」以外多くの人物としばしば会合し、帰還後の戦略をあきらかにする会議を催していた。そして、1965年5月31日に「14人」中のデュンダル・タシェル、アフメト・エル、ムザッフェル・オズダー、ルファト・バイカル、ムスタファ・カプランといった元MBKのメンバーとともに共和主義農民国民党(CKMP)に入り、実際に政治活動に身を投じることになった。

1965年にCKMP党首となり、長い討論の末、党是として「九つの光」を採択した。テュルケシュはこの頃自分の支持者によって「指揮官」と呼ばれ、同年、アンカラで国会議員に選出された。1969年2月6-8日にアダナ県の党会議でCKMPは党名を民族主義者行動党(MHP)に変更し、同時に党のシンボルも三つの新月に変えた。1966年に大統領に立候補したが、ジェブデト・スナイに対して11票の獲得で敗れた。1969年と1973年にアダナの国会議員として議会に選出された。1974年、最初の妻であったムザッフェル・テュルケシュ夫人を亡くした。その2年後の1976年、セバル夫人と再婚した。

テュルケシュは1975年以降民族主義戦線と命名された連立政府で副首相の職に就いた。

■ 9月12日

テュルケシュは(1980年)9月12日のクーデタから1985年4月9日まで4-5年間拘禁された。彼は9月12日のクーデタ期に極刑の判決が下されたが、無罪放免となった。

1987年に政治活動の停止の解除と同時に民族主義労働党(MÇP)に入り、同年行われた緊急会議で党首に選出された。1991年の総選挙で福祉党(RP)と選挙協力したMÇPのテュルケシュは、ヨズガト選出の国会議員として再び議会にのぼった。この間1992年に(1980年)9月12日のクーデタによって解散となった党の旧名をつけることについて政党法に変更が行われ、MÇPの党名も1993年に民族主義者行動党MHPと改名した。1995年の選挙で議席を獲得できなかったテュルケシュは、この時期に調停者の面を発揮して、国政に影響を及ぼしていた。テュルケシュは「九つ光」を始めとして政治・歴史的見解を含んだ本を著した。

テュルケシュは、トルコ政治活動の中で最も争論の的になっているリーダーの1人であり、1997年の4月4日の心臓発作の結果アンカラで死んだ。葬儀は国葬の形で執り行われた。

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( 翻訳者:百合野 愛 )
( 記事ID:13505 )