内相と経済財政相の解任、確定する
2008年04月10日付 E'temad-e Melli 紙
左:ダーネシュ=ジャアファリー、右:プールモハンマディー
【政治部:ジャヴァード・ダリーリー】「内務大臣は第9期内閣から解任されることになった」。プールモハンマディー内相に続き、さらにダーヴード・ダーネシュ=ジャアファリー経済財政相も内閣を去ることが確認された。
5日前、政府報道官は内閣改造を否定していたが、昨日同報道官の口から、経済財政相と内相の二つの閣僚ポストが変更されることが発表された。
モスタファー・プールモハンマディー内相は、パルヴィーズ・ダーヴーディー氏に代わり第一副大統領に就任し、パルヴィーズ・ダーヴーディー第一副大統領はダーネシュ=ジャアファリー氏に代わり、経済相になるのではないかと言われている。
政府報道官が内閣改造の報道を否定する一方で、その数時間後、大統領が改造を決意し、辞令をブログ上に掲載するなどというのは、〔アフマディーネジャード政権下では〕決して驚くべきことではない。実際、マフムード・アフマディーネジャード大統領は火曜日、自身のブログに内閣改造を支持する旨表明し、今後も同様の政策を継続していくと強調していた。政府報道官が最近取っていた立場と明確に矛盾する大統領のこのような発言は、新たな内閣改造をめぐるメディアの憶測をさらに強める結果を生んでいた。
いずれにせよ、ノウルーズ休暇明けに新聞で中心的に取り沙汰されてきたこの報道は、司法権長とともにカタールに滞在していた政府報道官自らが、昨日認めるところとなった。「大統領が日曜日私に述べたところによれば、内閣の同僚二人と個人的に話をし、自身の考えを伝え、その中で別の場所で政府に協力してくれるよう要請したとのことである。経済財政省と内務省で改造が行われる予定である。内閣の親愛なる同僚二人の奉仕を、別の場所で活用できることを願っている」。
政府系通信社であるIRNA(イラン国営通信)とのインタビューに応じたエルハーム政府報道官は、その中で次のように語っている。
このような改造については、日曜日まで何も聞いていなかった。木曜日に一部のニュース・サイトで、内閣改造の噂が流れていたが、しかし同日朝から午後にかけて行われた長時間に及ぶ州知事らを交えた閣議でも、噂にあがっていた閣僚らは皆、積極的に参加していた。記者会見が行われる土曜日の朝は、いつもは会見前に大統領と簡単に面会することになっているのだが、その日大統領は公益判別評議会の会議に出席する予定が入っており、面会することも電話で連絡することもできなかった。いずれにせよ、記者会見が行われる時までには、内閣改造は決まっていなかった。現在決まっているのは、二つの省で改造を行うということである。
エルハーム報道官は87年〔2008年3月20日~〕最初の記者会見で、最重要記事として新聞紙上を賑わせていた憶測を否定し、内閣改造が行われる予定はないと説明していた。
このときエルハーム報道官は冗談めかして(実際、同報道官は質問への回答で、しばしば冗談を言うのだが)、内閣改造を「13日の嘘」〔※〕であるとし、ノウルーズ休暇が長かったためにこれといったニュースがなく、情報を求めていたメディアが致し方なく作り上げた噂が流れたものに過ぎないなどと言っていた。
〔※「13日の嘘」とはイラン版エイプリル・フールのこと。イランではノウルーズ(イラン正月)期間最後のファルヴァルディーン月13日(閏年の今年は4月1日。例年は4月2日)に嘘や冗談を言い合う習慣がある。〕
このように政府報道官ともあろう人物が明確に否定した以上、通常ならば内閣改造の噂も記者らが会見場を出た頃には「ガセネタ」の烙印を押されてしかるべきであった。ところが実際はそうならなかった。エルハーム報道官が明確に、はっきりとした口調で否定したにもかかわらず、内閣改造をめぐる憶測は流れ続け、ついに昨日報道官自らが認めるに至ったのである。
内閣改造、9人目はプールモハンマディー内相
内閣改造の9人目のクジを引き当てたのは、モスタファー・プールモハンマディー内相だった。内閣の中で重要な役割を担っていた人物だ。
プールモハンマディー師は昨年、エッテマーデ・メッリー紙とインタビューの中で次のように語っていた。「私は(内閣を立ち上げる際)、その他数名とともに、様々なポストに推薦のあった人物を調査し、選別する役割を任されていた」。
イラン・イスラーム共和国史上13人目の内相となった同師は、司法、諜報、安全保障、政治の各分野で経歴を重ねてきた人物だ。1358年から1365年〔1979年~1987年〕にかけてフーゼスターン、ホルモズガーン、ホラーサーンの各州で革命検察庁の検事を務め、1366年〔1987/8年〕に情報相次官、1369年〔1990/1年〕に情報相代行、1370年〔1991/2年〕に海外情報局長、1381年〔2002/3年〕には最高指導者事務局政治・社会班の班長を歴任している。
プールモハンマディー師が51歳で内相になった時、同師は一部から内閣で最も知られた人物であった。というのも、彼の名前は1370年代〔1991年~〕前半、情報相代行としてつねに話題に上っていたからであり、そのため周囲の人々は皆、そして彼自身、さらにはアフマディーネジャード大統領までも、彼が第9政権の情報相になるものと考えていた。実際、1384年モルダード月〔2005年8月〕に閣僚名簿が国会に提出される2日前まで、第9政権の内閣で情報相を務めるものと考えられていたのはプールモハンマディー師だったのである。しかし彼は情報相とはならず、アフマディーネジャード大統領によって内相として指名されたのである。
〔中略〕
そして今、モスタファー・プールモハンマディー師は第一副大統領に任命されるのではないかと噂されている。
プールモハンマディー内相の後任は誰か?
プールモハンマディー内相の後任として、モハンマド・ジャフロミー現労働相と、アッラーメ・タバータバーイー大学のサドロッディーン・シャリーアティー学長の二人の名前が挙がっているが、その中でもシャリーアティー師が選ばれる可能性が強いようだ。
シャリーアティー師はベシャーラティー内相時代〔1996~1997年〕に国会担当の内務次官を務めた経歴を有している。
シャリーアティー師自身は、数ヶ月前エッテマード紙とのインタビューの中で、内務省入りする可能性を強く否定し、あり得ないことであるとしていたが、しかし先日行われた「核の式典」で、サマレ=ハーシェミー大統領顧問の隣、第一列に席を得たことから、彼が次期内相に選ばれるのではないかとの見方が強まっている。
核の式典で、アッラーメ・タバータバーイー大学のサドロッディーン・シャリーアティー現学長はダーヴーディー第一副大統領とサマレ=ハーシェミー大統領上級顧問の間に座っていた。
その一方で、アーフターブ通信は昨日、
モハンマド・ハサン・アブートラービー=ファルド国会副議長がモスタファー・プールモハンマディー内相の後任になる可能性が高いと報じている。ある国会議員は次のように語っている。「大統領は昨年末〔3月中旬〕、アブートラービー師と内務大臣受諾に関して話し合いを持った。恐らく国会選挙の第二回投票が行われた後、アブートラービー国会副議長は内務省に移ることになるのではないか」。
アブートラービー師は第8期国会選挙でガズヴィーンから当選を果たしている。
他方、政府報道官はプールモハンマディー及びダーネシュ=ジャアファリーの各氏の後任に誰が指名されるのかとの質問には、次のように答えている。「代行として誰を選ぶかは、大統領が決めることである。新しい大臣が国会に推薦されるまで、私にも誰が指名されるか分からない。正式に発表があるまで、少々待ちたまえ。なぜそんなに予想したがるのかね」。
〔後略〕
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( 翻訳者:斉藤正道 )
( 記事ID:13549 )