ペルシア語訳・村上春樹短編選集『どこであれそれが見つかりそうな場所で』をめぐって(3)
2008年05月31日付 Jam-e Jam 紙


現代人の苦悩

 村上は、現代の孤独な人間たちを描く作家である。短編選集『どこであれそれが見つかりそうな場所で』で描かれたように、その人間たちはどこだか知らない場所で、それが何なのかわからないものを探し求めてさまよっているのだ!
 [彼ら現代人は]外部からの影響や命令に従って決断を下し、自分を保てるぎりぎりのところで、孤独の闇と自らの生に対する蔑みへと自分を追い立ててしまう人間たちだ。

  短編『もうひとつの死に方』[訳者注]では、満州島[原文のまま]に一人残った獣医が、自分と同じ日本人の軍人たちの手によって、中国人逃亡者らの一団が無惨に処刑されるのを目撃する。中国人を殺すのに無駄な弾は使うなという命令で、軍人たちはyやむなく野球のバットや銃剣を使って中国人たちを殺す。
[訳者注]どの作品のタイトルを指しているのか不明。なお、ここで述べられる満州での中国人虐殺の物語は、『ねじまき鳥クロニクル』第三部「鳥刺し男編」(1995年)に現れる。

兵士たちは当惑しながら中国人たちを殺していくが、一方、彼らの連隊長も獣医も、この殺戮がいかに無意味であるかに気づいている。戦争は間もなく終わろうとしていて、日本がもうじき負けるだろうということを、皆が知っているからだ。そうこうするうちに、獣医は、殺戮の犠牲になった人の死体が捨てられて折り重なった穴へところがり落ち、血まみれの死体の上に倒れこむ。

 読者たちは、この転落が意味するもの―この体験をした後この獣医は、悲惨な運命を辿った中国人たちと同様、もはや死人でしかないということ―がよく理解できる。銃剣で自分と同じ人間の腹わたを引裂き、心臓をえぐり出す方法を若者たちに教えるような世界に住んでいることを知ったとき、果たして獣医はその後も、昔のように心安らかに猿に餌をやり、猿と戯れることができるだろうか。

 イランで村上の小説が好評をもって迎えられたということは、イランにも優れた読者が少なくないということを示している。そして、世界クラスの作家による真摯な文学や良質の小説、そしてその独自のスタイルをイランの読者らに紹介するならば、それは彼らの目に留まるのだということが明らかになった。

 村上のような作家たちの作品の翻訳は、イラン人の若手小説家たちにも、一小説家のスタイルや手法を取り入れることができるかもしれないと語りかけるだろう。しかし、作家を確立させ成功させるものは、彼が、人間や人生、そして自分の周辺世界を伴った人間に対してもつ、洞察や葛藤である。この視点だけは、容易に真似できるものではないのである。

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( 翻訳者:米沢佳奈 )
( 記事ID:14013 )