【政治部】日曜日、国会の公開本会議場でテヘラン選出のエリヤース・ナーデラーン議員は、報道関係者らから《砂糖王》と呼ばれている服役囚に一時帰宅が許可されていることに関し、法務相に対して説明を求める書簡を送ったことを明らかにした。ナーデラーン議員はその中で、《砂糖王》は90日前に刑務所を出たきりいまだに戻ってこないのは、いかなる許可があってのことなのか、回答するよう求めたという。
《砂糖王》事件は、イランの経済腐敗事件としては、シャフラーム・ジャザーイェリー事件〔※〕――裁判所の判決、ならびに彼の脱獄は昨今、最も重要なニュースとして社会を騒がせた――に次いで、最も重要な事件であると言うことができるだろう。
〔※シャフラーム・ジャザーイェリーはイランの若手実業家で、2001年に贈賄や横領などの罪で29歳の時に逮捕、2004年の裁判で禁固27年の刑が言い渡された。その後2007年2月に脱獄し海外に逃亡、ペルシア湾岸諸国の某所で再び逮捕された。ジャザーイェリーの贈賄事件には、著名な宗教指導者やその息子たちが関わっていたとされる。〕
1384年アーバーン月28日〔2005年11月19日〕、略称《モハンマド・レザー・Y》という名の人物が逮捕されたとの報道が一部に流れた。その後瞬く間に《砂糖王》と呼ばれるようになったこの人物が起こした事件は、シャフラーム・ジャザーイェリー事件と同様、最も重要な経済腐敗事件の一つとして、社会に波紋を広げた。
彼はかつてしがないキャラジ市役所の職員で、15年前まで、彼の総資産は数百万トマーン〔日本円で数十万円〕にも満たないものであった。その彼が、その後数千億トマーン〔日本円で数百億円〕もの資産を保有するまでになったということは、いまだ信じがたいことである。一説には、彼が国の内外に保有している総資産は、1兆トマーン〔約1200億円〕以上であるともされている。
ある事件で《砂糖王》は、経済界や政官界の有力者たちとの間に築いた大規模なコネを通じて、前経営陣時代の「輸出促進公庫」から3600万ドル(330億トマーン)もの資金を詐取している。また《砂糖王》は、「ヴァーヘブ」という名の会社を設立し、資産を没収された革命前の資産家を探し出した上で、コネなどを使って旧資産家の資産没収命令を解除させ、国庫からそれを引き出すという横領事件も起こしている。
《砂糖王》は国内の砂糖工場を多数乗っ取り、砂糖の密輸・密売によって巨額の資産を獲得、自らの経済力を悪用して国内砂糖工場を次々に破産の縁へと追い込んでいる。
このような《砂糖王》の動きが最高潮に達した数年前、彼の活動内容や違法行為を特定するための大規模な捜査が治安機関によって始められた。しかし1381年〔2002/3年〕に《砂糖王》誘拐事件が発生、治安機関による捜査も中断を余儀なくされる。こうして治安機関の追及から解放された《砂糖王》は、事件から1年以上経ったある日、2名の人物を誘拐犯として告発、彼らも誘拐への関与を認めて、60万ドルの身代金強奪が目的であったと自供した。しかし、この誘拐事件は《砂糖王》に対する捜査の中断を目的とした、〔自作自演の〕出来事であったとの見方を示す一部治安関係者もいる。
デズフールの砂糖工場をはじめ、複数の砂糖工場の株主だった《砂糖王》は、最終的に司法権情報保全局によって逮捕され、一年間の拘留を経て、1385年アーザル月〔2006年11月~12月〕、ヘンマトヤール裁判長の下、裁判が行われた。
その中で《砂糖王》ことモハンマド・レザー・Yは、砂糖の密輸・密売、不正な方法による資産の獲得、他者の資産の売却、銀行からの〔不正な〕借り入れ〔‥‥〕の罪に問われ、6回に及ぶ公判の結果、裁判官の裁量による26年の禁錮刑、及び730億トマーン〔約86億円〕の罰金刑が言い渡された。
このような中、《砂糖王》が1600億トマーン〔約188億円〕の保釈金と引き替えに釈放されたとの情報が、非公式筋から流れた。エリヤース・ナーデラーン議員の日曜日の発言は、このことをある意味で認めるものであった。「《砂糖王》はエスファンド月25日〔3月15日〕に一時帰宅をしたまま、いまだ刑務所に戻っていない」。
いずれにせよ、《砂糖王》の一時帰宅が、シャフラーム・ジャザーイェリーの逃亡劇に次ぐもう一つの大逃亡事件を、イランの司法史に残すことになるのかどうか、今後を見守る必要があろう。
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( 翻訳者:斉藤正道 )
( 記事ID:14107 )