著述家ルファト・バリ:いまも国家はマイノリティーを信用していない
2008年11月17日付 Yeni Safak 紙

(上略)

今日のお客様はルファト・バリ氏である。氏はユダヤ教徒の著述家だ。1996年から現在まで、ユダヤ教徒を始めとして非ムスリムマイノリティー、反ユダヤ主義、陰謀理論、トルコ社会の文化的・社会的変化、そしてイスラム教への改宗者といったテーマにおいて研究や本の出版を行っている。

メフメト・ギュンデン記者(以下、記者):オスマン帝国から共和国への移行において、とても多くの分野で[今まであったものが]無くなったり、また再生したりといった状況が問題になりました。この過程はマイノリティーにはどのように反映したのでしょうか。

ルファト・バリ(以下、バリ):共和国とともに社会は無くなることを望んでいるが、記憶は忘れない。[マイノリティーは]今日、総人口の中において大きな割合を形成していないために頭に浮かばず、問題[意識]を醸成してもいない。しかし1930-40年代では「世界大戦下でも、独立戦争下でもわれわれを裏切った」という反発が多かった。マイノリティーに関する共通の記憶は、マイナスの側面を伴って思い出される。しかしマイノリティーには、[第一次世界大戦後にトルコの領土を]占領した国家に協力した人々もいたと同時に、反対する人々もいた。国を挙げての戦いにおいて重要な役割を担った者も非ムスリムの中にいる。その当時のことについては多くの研究が行われたが、敏感な話題であるためにはっきりとしたことは言われていない。一般にアルメニア教徒たちとギリシャ正教の人々は占領国側に加担し、ユダヤ教徒たちは誠実であり続けたと言われるのだ。

記者:「すべて」または「一部」の区別をつける必要があります。誠実な人々もいますし、敵と協力した人々も…。

バリ:記憶はこれを一般化して捉え、そしてみな裏切り者であったと言う。その疑いは未だに続いている。「マイノリティーのやつらだったか、われわれを裏切ったのは。[ならば]また裏切るだろう」と言われるのだ。

記者:共和国のイデオロギーにおいては疑念が支配的な形と言えます。

バリ:単に共和国のイデオロギーだけでなく、リーダーたちや社会も、経験上多くのことを疑いをもって見ている。信じる気持ちはとても少ない。

■他者は自分たちを被害者であると感じる

記者:『国家のユダヤ教徒たちと「向こう側の」ユダヤ教徒』という本をお書きになりました。[では]この社会では向こう側になることとはどのようなことでしょうか。

バリ:国家に奉仕するユダヤ教徒と普通のユダヤ教徒がいます。非ムスリムにとって[社会の]他者となることは、非ムスリムであることを絶えず想起することである。そうした状況では被害者であるという感情が重くのしかかる。ある場所や時代においては、この状況は自身を[被害者と]より強く感じさせるのです。

記者:[それは]どんな時代や場所ですか。

バリ:例えば一党独裁時代においてです。1924年の共和国憲法は公職に就く権利を認めたが、なれなかった。[また]1923年から1945年の間、正規または予備の軍人にもなれなかった。信用できないと見なされたのです。公務員も務めなかった、なぜならわれわれ[社会の成員]は血を流した、これらの連中はイスタンブルで、またはイズミルで裕福になったという理由で。今こそわれわれの出番であり、本来の構成員として前面に出なければならず、われわれは裕福にならなくてはいけないのだ、もう非ムスリムの時代は幕を閉じたのだという考え方を持っていた。この考え方は公職の場では有効となったが、民間部門では有効とならなかった。なぜなら言葉の知識と道具がマイノリティーたちのもとにあったからです。

■ 「裏切る者たちもいた」

記者:「あなたたちは裏切った」という見方の現実性はある…。

バリ:あります、もちろん。あらゆる集団に関して。しかし問題は以下に示す通りです。個々の出来事または集団を取り上げてすべてのマイノリティーに当てはめたとき、不当なことを行ったことになるのです。マイノリティーの問題は、学問的な研究や冷静なアプローチからほど遠い、ひとつの政治的問題に至ったのです。

記者:独立戦争におけるマイノリティーの姿勢はどんなものだったのでしょう。

バリ:シリア正教徒たちのことはよく知りませんが、アルメニア教徒やギリシャ正教徒、ユダヤ教徒たちの状況は同じではありません。ギリシャ正教徒やアルメニア教徒たちには民族的ナショナリズムの幻想があったし、ユダヤ教徒たちにとってその時代におけるそれはパレスチナと関係していた。[しかし]この活動はアナトリアの土地を脅かしてはいなかった。オスマン帝国時代の最後のユダヤ信徒共同体の長(ハハム・バシュ)であるハイム・ナオムは、ギリシャ正教徒とアルメニア教徒たちに降りかかっている災難を見るや、実際の考えはこのようでは無かったにもかかわらず、シオニズムと、つまりユダヤ・ナショナリズムと距離をとり、信徒たちを守ることに努めた。常にケマリストの考えの側に身を置いた、そして[この考えを]説明するようにと言われヨーロッパに派遣された。

記者:在トルコユダヤ教徒信徒集団の元会長であるベンスィヨン・ピントが回顧録を書きましたが、[その中で]「もう私を汚いユダヤ教徒と呼ばないように」と述べています。汚いユダヤ教徒とは、頻繁に耳にする言葉ですか。

バリ:個人的にはまったくこのような言葉を向けられたことはありませんが、言われたことのある人ももちろんいるでしょう。ベンスィヨンさんが書いたところによると、とても多かったようです。「汚いユダヤ教徒」という悪口は、30・40年代では有効でかつ大衆文化に定着した考えです。当時、ユダヤ教徒たちはイスタンブルにより多く住んでいました、そして本やユーモア誌の仕事のひとつがこうしたこと[揶揄]だったのです。

記者:マイノリティーですか、[それとも]宗教的マイノリティーですか。

バリ:宗教的マイノリティーです。ローザンヌ条約は宗教的マイノリティーとして承認した、そして一定の便宜を与えた。[しかし]1923年から1945年までの間、この便宜は適用されなかった。なぜなら国民国家プロジェクトに矛盾を生む側面があったからだ。[為政者は]すべての人々をトルコの国民的アイデンティティの中で溶かし、再びトルコ人を創り出すことを望んでいた。このためこの権利は紙の上に止まった。

記者:1923年から1945年の間に何があったのでしょうか。

バリ:その時代を眺めたとき、世界情勢の文脈では、独裁者の時代であったと言うことができる。トルコにおいてもひとつの政党しかなく、また国民国家がつくられていた。マイノリティーの人々をトルコ人アイデンティティに急速な形で取り込もうとした。これはもちろん可能なことではなかった。しかし、こうした人々は自身の宗教的・民族的アイデンティティを隠さなくてはならなかったのです。

記者:組織的なトルコ化、もしくは文化的なトルコ化を経験しましたか。

バリ:「新しいトルコ人」の中に組み入れることを望んだ人々は、そのように説明した。あなた方は再生したのですと言い、1924年の共和国憲法では宗教、言語、人種による差別のない平等を与えていると言った。これは臣民から国民へと、社会的地位の上昇とされた。しかしエリートたちやリーダーたちは、非ムスリムを影の存在として見続け、その権利は与えられなかった。

■ 「スパイ行為をするという疑いがある」

記者:1941年に何があったのですか。

バリ:ギリシャとブルガリアを占領したナチス軍はトラキアの国境に達していました。トルコは、懸念をもち、諜報機関の活動に加担する可能性のあるすべての人々を選び出して、一部をアナトリアに遣り、大部分を「非ムスリム兵」として徴用した。しかし[彼らに]武装訓練をしなかった、なぜなら戦闘で信用できないと言ったのです。

記者:マイノリティーがスパイ行為や敵と協力するという懸念がこの決定を下させたのでしょうか。

バリ:そうです、拘禁しようという空気がありました。しかしナチスがトルコを攻撃しても、ユダヤ教徒たちが彼らと協力することはありえませんでした。一部のアルメニア教徒たちがナチスに傾倒していることが確認され、過剰に考えずに、最良なのはすべてのマイノリティーを徴兵しよう、と言ったそうです。彼らは信用できないからと。

記者:20等級付け徴用兵として非ムスリムの中から20歳から45歳の男子が徴兵されました。

バリ:そうです、その数は2万から3万の間です。1941年の4月に徴兵され、42年の7月に復員しました。

記者:その兵士たちにとって何が変わったのでしょうか。

バリ:失望です。彼らの手には武器ではなく、シャベルがあった。[そう]国家はまた彼らを排除したのです。1941年に行われた非ムスリムの徴兵は、一党独裁時代のトルコ化政策のひとつの段階として見られている。それは正しい。トルコ化であり、影響をそぐことであり、貿易面で多少後退させるといった側面もあった。しかし根本的な問題は信用の問題であった。

■ 「血の代償として見られた」

記者:後に富裕税が課せられるようになります。

バリ:本やユーモア誌を見ると、マイノリティーに反対する文学が発展したことがわかります。市井の人々にはまったく偏見がなくても、毎日これを読むとある種の考えが形成され、マイノリティーに反対する感情も現れる。そしてついに富の分配が問題になる。トルコ人ムスリムのブルジョワ階級では次のような失望があった、闘いをわれわれがおこなった、(しかし)経済は未だにやつらの手の内にある、その付けをわれわれが払ったのに、やつらはその機会を捉えている。国民を搾取している、[だから]われわれが舵を取らなくてはいけない言い、富裕税が課せられる。法的な問題はなかったが、実施においては差別が生じた。[ユダヤ系の著述家で国会議員にもなった]アブラハム・ガランティがこの状況に抗議しに行ったところ、[当時の首相である]シュクリュ・サラチオール(在職1942-1946)も、[作家の]シェヴケト・スュレイヤ・アイデミルも次のように言った。祖国に、国民に、血の代償を払っていないでしょう、[だから]税金を払っているのです、それが何だというのですか。
  
記者:9月6-7日事件[1955年9月6-7日に起きた、キプロス問題に端を発したギリシャ系住民への襲撃事件]は何の結果でしょうか。

バリ:トルコ化との関係はありません。トルコがギリシャやイギリスとともに座った交渉の席で、手元を強化し、望んでいる報酬を得るために使った切り札だったが、制御できなくなったのだ。チャンスを見計らっていた人々にも僥倖だった。

記者:公的なイデオロギーやケマリズムをマイノリティーの人々は共有しているのですか。

バリ:ユダヤ教徒たちは心から受け入れた、なぜなら平等を約束していたからです。こうした人々はこれを切望したが、1923年から1945年の間失望し、経験した不当な扱いを内面化し、あまり表に見せなかった。大きなトラウマを作り、苦い思いを残し、国外移住への思いを作り出した。そして3万5千人もの人々が1年間で移住した。失望は今日においても妥当する。

■ 「マイノリティーは平穏ではない」

記者:今日、ユダヤ教徒たちは少し身を引いたのでしょうか。

バリ:あまり目立ちたがっていません。昔は活発だった人々も今は年老いてしまった。今日、若い世代の多くが自分たちを世間に対しユダヤ教徒として表現しない。アルメニア教徒、ギリシャ正教徒、ユダヤ教徒の間で、最もトルコ民族主義者である者、またトルコ人アイデンティティを自身を言い表す際に最も用いるのは、ユダヤ教徒です。このことを、ユダヤ教徒はより忠実であるという意味では述べてはいません。ケマリズムに大きく傾倒し、そしてトルコ性をエスニックグループとしてではなく、自己認識の器として認めたのです。今日、老世代は新しい世代に対し、不当な扱いを受けたという感情を植え付けている。

記者:マイノリティーの内どのグループが、今日より平穏でいますか。

バリ:ユダヤ教徒たちはまだ平穏ではありません。御覧なさい、市井の人も、政治権力も、非ムスリムをトルコ市民と見ていない。政治権力はマイノリティーを信用していない。過去の[行状の]記録がきれいでないことを根拠として示している。「われわれは過去の帳面を閉じました。みなさんすべてを信用しうる人々として受け入れています」と言っているにもかかわらず、心の中では「もしかしたら」と疑っているのです。
(後略)

ベンスィヨン・ピントの回顧録に関する記事
http://www.salom.com.tr/news/detail/9641-Bensiyon-Pintonun-ani-kitabi-yayimlandi.aspx

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:15142 )