映画「オスマン共和国」評―中途半端にコメディ、中途半端にまじめ
2008年11月21日付 Radikal 紙

ガーニ・ミュジデ作の「オスマン共和国」は、アタテュルクがいなかったら今の我々の状況はどうなっていただろうかということをテーマにしたフィクションである。映画は、コメディーとシリアスを決め切れず中間にある。

このコラムは映画「オスマン共和国」と「ムスタファ」を観た後に読んでください。
幸せなことにトルコでは今や「否定されてきたもの」と共存することができる。「ムスタファ」に続いて「オスマン共和国」を鑑賞することは、絵画の欠けた部分を補完するかのようである。ガーニ・ムュジデが脚本・監督を務めたこの映画は、ジャン・デュンダルの「人間らしく」したアタテュルクに、「人間らしくされた」スルタンを対峙させている。しかし私からの警告であるが、今回も「偉大なスルタンが恋をするだろうか、偉大なスルタンがその妻を欺くだろうか、偉大なスルタンが携帯電話からのメッセージ送信の方法を知らないなどということがあるのか、これはオスマン帝国にふさわしいのだろうか?」といった議論が始まる可能性がある。ご存知のように、この国は役に立たない事に熱中する者たちで溢れ返っている。冗談はさておき、大衆映画のために私たちが期待したこの企画は、何と残念なことだろう、本当に失望させるものであった。ご承知のように、ガーニ・ミュジデは、この国が育んだ貴重な風刺画作家の一人である。『グルグル』から『レマン』へ、『デリ』から『ペンギン』に至るまで、多くの冊子に、作品とサインがある。さらに加えて、私が思うに優れた作品といえる「裏切り者ビザンツ」の製作者でもある。だがしかし、そのおよそ9年後に彼がカメラを構えて撮影した、そして紙面では輝いて見えたアイディアを盛り込んだ「オスマン共和国」は、ミュジデにとっても、映画界にとっても、無駄な挑戦になったようだ。


■最初のエスプリは始まって25分のところ
まず、短くテーマについて話そう。
ムスタファ少年は、セラニキでカラスを追っている時分、籠の中の鳥を助けようと木に登るが、地面に落ちて死んでしまう。こうして祖国は、後に国を救うはずだった指導者を失い、歴史の流れが変わる。そして2008年になり、オスマン帝国はまだ存続している。しかし権力の座にいるオスマン7世に大きな力はない。彼のわがままや命令は、宮廷関係者の間だけで通用している。なぜなら、その国はアメリカの委任統治下にあり、米兵があちこちで好き勝手に統治しているからである。侍従長とその義理の父にあたるイブラヒム・パシャはといえば、密かに玉座に目をつけ、この道筋でアメリカ人との共謀にずいぶん前から取り掛かっていた。こうした日常の中で、宮廷の修復工事の際に出会った、芸術アカデミーの学生アスデは、スルタンにとって新たな鼓動、人生の喜びとなっていく。一方、国の最果てにあるアンカラという名の小さな町では、ある一団の若者たちがアメリカの委任統治に対して抵抗するための機会を窺っていた。
映画の最も重要な問題は化学反応であると私は思う。ストーリーはコメディーのように始まった、しかし私は時間を計ってみたのだが、公開前上映会の観客は25分目にして初めて「パンダと交配」のエスプリに笑った。物語が進むにつれて、コメディー形式から抜け出て、シリアスな(悲劇とも言える)域に入った。しかしこれは混交した構造を生じさせた。もし、目指したものがこれであるならば成功したのだろう、しかしこうした映画にどういった特徴があるのだろうか、ということは議論されるだろう。実際、ガーニ・ミュジデは今月の「シネマ」誌の対談で、「私は映画が議論されるよう望んでいる」と言った、しかしおそらく彼が言っているのはこのことではなかっただろう。
議論の問題についていえば、「オスマン共和国」は、コメディーに向かうことからシリアスに畳み込むことで、私たちをアタテュルクのいない歴史がもたらしうる結果に直面させようとしている。しかし、ストーリーが引きずり込まれた先は、不必要で時代遅れの反帝国主義のメッセージであり、またもヒロイズム文学となってしまった。そもそもストーリーはそれ自体の中で矛盾している。反乱者たちはなぜ、20世紀の間中、いずれの問題にも対策を講じられなかったスルタン制から未だに援助を得ようと画策するのか、そしてそのためにアスデを間に引き込むのか、よく理解できない。実際、映画も最後にはスルタンの降伏主義を断念している。折々出てくる、「我々はスルタン・ファーティフの、スルタン・ヤヴズの、カーヌニー・スルタンの子孫である」という表現は、感じの良いリマインドにとどまっている。オスマン7世が時々「マフィアのボスのように威張り腐る」ことも、私たちにただ「ああ、アタテュルクのような指導者がいるはずだったのに」と思い出させるだけである。さらに映画の反帝国主義的側面については、もちろん私たちは現実にはアメリカの委任統治を認めなかった、しかし現在、私たちが属している文化は、アメリカの現実とどれほど離れているだろうか?多少単純化になろうが、何らかの形で私たちはやはりアメリカの委任統治下にいるのではないだろうか?

役者については、間違いなくシナリオに起因することとして、アタ・デミレルは実力からかけ離れた演技を見せている。「カラジャベイ・ビュルビュル」のシーン以外に、深い存在感はない。アリ・デュシェンカルカルはといえば、いずれにしても、おべっか使いの人物描写によく成功している。
親愛なるガーニ・ミュジデは、「海での生活」のひとつの延長線にある、私たちが「オスマン帝国の現代版」と定義するこの2作目の長編作品で、残念なことに、「裏切り者ビザンツ」の輝きからは程遠くなってしまった。実際のところ、私にとって本来のガーニ・ミュジデは、「バラト物語」の作り手である。
あの日々に、そして深いストーリーに立ち返った企画でまためぐり会えますように…。

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( 翻訳者:林奈緖子 )
( 記事ID:15219 )