MEHMET KAMIŞコラム:謝るということ
2008年12月20日付 Zaman 紙

まだ30年前には、アルメニア人が非常に多く暮らしていた街区には、もはや誰もいない。古い家々は取り壊され、その跡地には魂のまったくこもっていない、極めて醜悪なアパートが建設された。

フラント・ディンクの暮らしたチャヴシュオール街区と、サルキョプリュ街区のアルメニア人のほとんど全員は、カナダへ、あるいはイスタンブルへと移住した。しかしながら、ここらにはまだ少し前までは、何とたくさんのアルメニア人が暮らしていたことか。

2ヶ月前、私は自分が初等教育を受けたマラトゥヤにあるヒダイェト初等学校を訪れ、70年代の卒業生が掲載されている史料を閲覧した。当時は気付いていなかったのだが、何とたくさんのアルメニア人と一緒に学んでいたことか。今ではほとんど誰もいない。私はその街区へ行く度に、アルメニア人たちが故郷を捨てたことに心を痛める。そして、我々が彼らを街に留められなかったことに謝りたいという気持ちが心の内から浮かぶ。

しかし、アルメニア人問題は、残念ながら世界で、私たちだけでは手におえないくらい大きな問題となってしまった。そしてこの問題を口にするとき、両者ともに中間的な意見はない。白か黒、それが全てである。もしアルメニア側から見るのなら、「ジェノサイド」だと言い、謝罪を求め、この賠償金を払うよう主張する。もしトルコ側の視点にたつのならば、「我々は殺していない、アルメニア人がトルコ人を殺したのだ」と言うのである。これ以外の発言すべては、あなたを両方から追い払われた人物にする可能性がある。

たとえば、ある観点から見たとき、つまり1900年代初頭にエルズルム、ヴァン、カルスで、アルメニア人が無関係なことに口出しせず、穏やかに家々で暮らしていたときに、オスマン兵がやって来て、彼らを無理に移住するよう強制したのだろうか?強制移住の際にジェノサイド遭わせたのか?それともアルメニア人は、オスマン朝と交戦中であったロシア、フランスのような国々と協力し、トルコ人を裏切ったのか?この混乱で、フンチャクやダシナク武装団は何万人ものムスリムを殺害しなかったのだろうか?アルメニア人が千年もの間、一緒に同じ街区で、互いに助け合って生きてきたトルコ人に行ったこの行為は、トルコ人にとって大きなトラウマを残す理由になった可能性はあるのだろうか?

ひとつ考えてみてください。1900年代に、国がバラバラに分割され、7つの前線で7カ国の西欧列強と戦っていたのが我々である。何十万人もの兵士が犠牲となり、送り出した息子を取り戻せなかったのが我々なのだ。バルカン各地で、コーカサス各地で殺害に遭い、何十万人もの人々が移住を強制され、エルズルム、カルス、ヴァンで隣人に裏切られたのも我々なのだ。しかし、我々が痛みを騒ぎ立てなかったから、謝罪するのも我々になるのだろうか?

ここでの問題は、1900年代に起きたこの恐ろしい火事のような出来事で、無罪の者が罪を犯した人とともに罰せられていることである。アルメニア人問題は、エルズルムとマラトゥヤでは別のものである。アルメニア人のタシナク武装団の延長線上にある人々は、エルズルム、ヴァン、ビトゥリスで大規模な虐殺を行ったが、マラトゥヤとアマスヤではまったく何もしなかった。ここでの間違いは、当時のオスマン朝政府で政権を握っていた統一と進歩委員会が、スルタンの承認を得ずに強制移住を企てたことと、アナトリアから非ムスリムを一掃することに力を注いだことである。

とにかくこれらすべての出来事の後で、トルコから何人かの知識人が現れこう言うのだ。「強制移住期に不当に命を落とし、強制され、大惨事に遭ったアルメニア人の方々に謝罪する」
国はこの問題を議論しており、支持する者、反対する者が出てきている。これは、ある側面でこの国の勇気を表している。私も問う。アルメニア人の中に、このような勇気ある何人かの人はいますか?
「ロシア人、フランス人の約束にだまされ、我々の1000年間の友情を壊してしまったことをお詫びする。我々が殺害したムスリムの人々にもお詫びする」と言うアルメニア人知識人は現れるのだろうか?

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( 翻訳者:林奈緖子 )
( 記事ID:15379 )