Ismek Berkan コラム:クルド労働者党(PKK)あってのエルゲネコン
2009年01月10日付 Radikal 紙
エルゲネコンとは一体何なのだろうか。私は、この捜査を進めている検事や警察官すら、これについてはっきりした考えをもっていないと思う。
エルゲネコンとは何かは議論の的である。私は、個人的には、この捜査を進めている検事や警察官すら、これについてはっきりした考えをもっているとは思わない。エルゲネコンとは何かについて、一年ほど前に、要職にある治安関係者と話したことがある。そして、今日、ススルルク事件の有名な有罪者の一人であるイブラヒム・シャーヒンの家から押収された地図に基づき行われた捜索により地中から発見された物品や武器をみて、そのときの話を思い出した。
その会談のあと、その治安関係者の話に、私のもっていた情報・推測・経験を加えて、自分なりの見取り図をつくった。エルゲネコン組織やその源泉に関する問題を、私はいつもその見取り図に基づきながめている。
分離主義者PKKによるテロは、70年代末にはじまった。しかし、PKKが直接、政府の正規軍と闘争を始めたのは、1984年の有名なエルフ攻撃からだった。トルコ軍にとって、これは、はじめて体験する異質のテロ攻撃だった。なぜなら、完全に山野での攻撃だったからである。これまで、警察も、国家諜報機構も、その仕組みを、すべて、都市におけるテロ用に整えていた。
地方で諜報活動をすることは、組織のなかにスパイをおくりこんだとしても、(不可能とはいえないまでも)、非常に困難だった。そのスパイから必要なときに瞬時に情報を得ることができないからだ。しかし、情報機関としては、なんとしても、これに対応しなくてはならなかった。テロが頻発した場所が軍警察区域だったため、基本的に軍警察または軍がこの問題に対応していたし、その後もすることになった。
テロに対応して戦うには諜報活動が不可欠だった。このため、この諜報活動を満たすため、この問題にあまり知識も経験もない組織である軍警察がこの対応にのりだした。多少なりともなにかをしようとした。
アフメト・ジェム・エルセヴェルのような、「祖国を救うライオンたち」は、この時期に登場した。PKKのテロとの闘争がはじまったとき、彼らがはじめたやり方、または、だれにも相談せずに彼らが行った手法で、彼らは脚光をあびた。軍警察諜報テロ対策局(JİTEM)は、その時代の結果である。 「告白者たち」は、その時代の諜報活動の努力の結果である。未解決の殺人事件、ヒズボッラー、PKKの資金源を切ろうとして結果として生まれた巨大なマフィアなどは、その時代の産物である。
現在、ススルルク事件がわからないかぎりエルゲネコンがわからないのと同様、トルコの政治を理解するには、PKKのテロが「救国将校団」(注)の誕生に果たした役割を理解しておかなくてはならない。この現代の「救国将校団」は、トルコをいつクーデターが起こってもおかしくない状態にいとも簡単に陥れたのだ。
エルゲネコン組織は、「手足となる戦士」を、あの「祖国を救うライオンたち」からえていた。ちょうど、ススルルク(事件に関わった組織)が、特別機動隊の警察官、(民族主義者である)旧「理想の炉」のメンバー、そしてマフィアたちのなかからその戦士たちを選んだように。
それゆえ、エルゲネコンとPKKは、ひとつのメダルの表と裏の顔である。もっといえば、PKKがいなければ、エルゲネコンは、もっとやりにくかったろう、戦士と見つけることも、武器をみつけることも。しかし、エルゲネコンがなかったとしても、PKKはあった。そもそもPKKは存在し、そのPKKがまもなくエルゲネコンを生み出したのだ。
おそらくこの現実をよくわかっていたものの筆頭に、エルゲネコン組織のメンバーたちがいたのだろう。このため、今後、エルゲネコンとPKKの関係を示す直接・間接の文書がでてきたとしても驚くには値しない。
注)1912年に「統一と進歩委員会」を排除すべく武力を用いようとした軍人グループ。結果として「統一と進歩委員会」によるクーデタを導き出した。
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( 翻訳者:トルコ・メディア翻訳班 )
( 記事ID:15541 )