ハータミー前大統領「私とミール・ホセイン・ムーサヴィーのいずれかが立候補する」:現政権の政権運営を痛烈に批判
2009年01月13日付 E'temad-e Melli 紙
イーラームのすばらしき人々は、〔アーシューラーのある〕ムハッラム月に対して特別の関係をもっている。この地域の人々はアバー・アブドッラー〔=第三代イマーム・ホセイン〕と預言者一族に献身的な愛情を持ち続け、貧しくとも抵抗と誇りを忘れずにいる。このことが、アーシューラーとアバー・アブドッラーに対する特別の関係をイーラームの人々に与えているのだ。私はあなた方の近くにいられることを、誇りに思う。
私が最初にイーラームの人々と出会ったのは、ムーサヴィー政権にいたときのことだった。戦争が継続される中、私は同政権の代表としてイーラームを訪れた。私はそこで、イーラームの人々の士気、イマーム〔・ホメイニー〕とイスラーム共和国体制に対する愛を見て、感銘を受けたものだ。というのも、ここが問題だから何とかしてほしいといった要求を私にしてくるような人は、誰一人としていなかったからだ。このようなことは、他のどの地域でも経験したことがなかった。
イーラームの人々はどの階層の人であれ、すばらしい人ばかりである。その一方で、イーラーム州は全国でもっとも貧しい州の一つである。もてる可能性を活用して、自立を達成されることを願うばかりだ。
我が国では、6〜7州が恒常的に貧しい状況に置かれている。これらに州には特別の対策が必要だ。つまり、インフラを整備して、より発展した州と競争ができるような状況を作っていかなければならない。私が大統領を務めていたとき、政府はダムや道路の建設、重要プロジェクトの立ち上げなど、いくつかの基本的な事業の開始を決定した。おかげさまで、よい仕事ができたと思う。
これらの仕事は継続させることが重要だ。しかし残念なことにそうはならなかった。より重要なのは、仕事をしたいと思うような状況を民間部門のために用意することだ。
貧困が社会全体からなくなるということではない。そうではなく、優先順位を付けて、まず目に見えて厳しい貧困を社会から取り除き、豊かさへと動き始めることなのである。貧困地域から目にも明らかな貧困を取り除くことは、その第一歩なのである。
ムーサヴィー内閣の時代、その後の基本となるような仕事が一部実行された。ハーシェミー=ラフサンジャーニー政権で一部のプロジェクトが開始されたが、それもムーサヴィー政権時代の投資の賜だった。〔ラフサンジャーニーによる〕《建設政権》の時代、大規模な事業が公正に実施されたが、それは国のポテンシャルを活用すること、〔戦争による〕破壊からの再建を図ること、そして社会を発展へと導くことが目的であった。このような方向性は間違いではなかった。
改革の時代でも、国家建設が続行され、あらゆる方面での発展の上に立った国の基盤強化が図られたが、なかでも政治的発展に重点が置かれた。政治的発展は、そのもっとも重要な特徴として、民主主義と人民主権の永続化をもたらすものであり、革命の大いなる目標の一つでもあると信じたからだ。
私が政権に就いたとき、私たちを取り巻く国際状況は良好なものではなかった。多くの国の大使はイランを見捨てていた。イランに対する軍事攻撃の可能性すらあった。このような状況を変えねばならなかった。
市民の決意が、イランのイメージを変え、多くの問題が解決された。なかでも、海外の資本とテクノロジーがもたらされるための基礎が、イランに作られた。大いなる変化がイランに起きた。例えば、アサルーイェやサウスパールス、その他〔石油化学やガス田開発における〕重要プロジェクトが立ち上げられた。国際社会の場でも、国内政治の場でも、注目に値する変化が起きた。
その後ここ三年間で、前例のないほどの莫大な石油収入が国にもたらされた。しかし、これらの収入はいかなる変化を国にもたらしたのか、ここで問うてみる必要がある。
社会正義を実現させるためにもっとも大切なのは、社会保障を拡大・強化することだと、私たちは考えた。そこで私たちは、福祉社会保障省の設置に関する法案を作り、それは国会で可決されて、実行された。もしこの流れがきちんと続いたとしたら、莫大な〔石油〕収入によって人々は社会保障の傘の下に入り、誇りある生活を営み、問題の軽減に役立ったはずだ。
戦争の時代を通して、さまざまな制限が存在した。革命の最初の数年間の自由と開放感は、ある程度制限を受けた。しかしそれでも、市民の権利と自由、《人々の票こそ規準なり》〔※ホメイニーのことば〕が強調され、それに則って〔国政の運営が〕行われた。
イマームは〔イランがイラクの〕爆撃下にあっても、選挙を中止することはなかった。一度〔選挙を実施する〕内務省と〔選挙を監督する〕護憲評議会の間で対立が生じたこともあったが、その時も代理人を派遣して、国民のために問題の解決を図った。
イマームがご存命中、〔護憲評議会による選挙立候補者及び選挙結果に対する〕監督・承認というようなものは存在しなかった。イマーム逝去後、このような手続きが行われるようになった。〔‥‥〕。
私が考えるところ、もし監督・承認というものがあるのであれば、それは人民主権と矛盾するものであってはならない。つまり、市民の意見や願望が一方にありながら、少数の人間の好みがすべてを決めてしまう、というようなことになってはならないのだ。
先の国会選挙では、誰がどのような問題で立候補資格を否定されたか、あなた方も見てきたはずだ。改革派はテヘランやすべての地方選挙区を合わせて、104の議席を争うことを許されたが、多くの著名人が〔立候補資格を〕否定されてしまった。今、改革派は国会で約60議席を占めているが、もし全290議席で争うことができたならば、国会の勢力図も変わっていたはずだ。
政治的発展は、経済的発展、科学的発展、つまりすべての領域における持続的発展とセットになったものだ。この点で、われわれはよい一歩を踏み出すことができた。私は、民主主義、自由、市民の権利と尊厳に依拠してきたし、今もそうだと思っている。私の体に血が流れている限り、それを守り抜くつもりだ。
私たちのスローガンは、すべての領域での発展であって、政治的発展だけを目指してきたわけではない。私たちは政治プログラムよりも、経済プログラムにおいて成功を収めてきた。
もし第四次開発計画が近年のような石油収入のもとで実施されていたならば、〔ハーメネイー最高指導者が策定した〕《イラン20年ビジョン》の目標も10年で到達できるはずだと確信している。しかし、この4年間で前進がなかったばかりか、むしろいまや4年前よりも後退しているというのが実情だ。これは実に懸念すべきことだ。
もっとも簡単で、もっとも好ましいのは、責任者が現在のやり方は間違っていたということに気が付いて、それを修正することである。問題があるのに、それを国民に謝罪しないなどということがあるだろうか。もし国民に謝罪するのであれば、国民も許してくれるだろう。
しかしもし謝罪せずに、現在のやり方は間違っていたと責任者たちが思わないのであれば、〔国民の手で〕状況は変革されねばならない。これはイスラームが要求する責務であり、革命の、そしてわれわれ国民の責務である。現在のやり方は、革命と我が国の威信にとって相応しいものではない。
神もご存知のように、選挙への出馬・不出馬に関して考慮しているところだと私が言うとき、それは責任の重みから逃げようとしている、あるいは余生を楽しみたいと考えているということではない。そうではなく、どうしたら〔国民に〕奉仕することができるか、どうしたら革命と国家、国民のために、現在のやり方を変革することができるかということを考えているのである。
立候補を表明している、ないしはする予定のすべての人に敬意を表しつつ、私とムーサヴィー氏のいずれかが立候補することになるだろうということを、私はすべての改革主義者、そしてたとえ改革主義者でなくとも現状を変革したいと考えている人々に対して申し上げる。
( 翻訳者:斎藤正道 )
( 記事ID:15573 )