アルメニア系アゴス紙編集主幹フラント・ディンク、追悼される
2009年01月19日付 Hurriyet 紙
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銃撃され、2007年1月19日に命を落としたアゴス紙編集主幹フラント・ディンクが、死から2年目を迎え、式典と催しで追悼された。

アゴス新聞社の前で14時30分から行われる式典の前に、ディンクが殺害された場所は花で満たされた。警察は新聞社の社屋前の道で広範囲な警備体制をとる一方で、ハラスカルガズィ大通りは通行止めとされた。

フラント・ディンクを追悼して、14時58分には1分間の黙とうが捧げられた。式典では、トルコ語とアルメニア語の「我々の勇者、獅子がここに眠る」、「ユーフラテス川の歌」、「ブロンドの花嫁」といった民謡が流された。
ハラスカルガズィ大通りにあるアゴス新聞社の建物前で行われた式典の参加者は、「フラントのために、正義のために」、「我々は皆、フラントだ、我々は皆、アルメニア人だ」というシュプレヒコールをあげた。人々は「フラントのために、正義のために」とトルコ語、英語、クルド語、アルメニア語で書かれたプラカードを手にしていた。

■「慣れることはできない」
式典ではオラル・チャルシュラルが、フラント・ディンクのために準備されたメディアへの共同声明を読み上げた。
声明では、1月19日がこの国の心ある人々にとって心痛む日々の一日であり、100年たっても忘れられることはないだろうと述べられ、次のように続けられた。

「彼がいないことに慣れることはできません。フラントは我々すべてのものです。見識と良心に呼びかける革命家でした。この国は彼を愛しました。彼は人々を心から抱きしめ、信頼を得ました。親友であり、兄弟であり、心をこめて語りかける、真実を語る人物でした。
フラントはアルメニア人でした。アルメニア人やシリア正教会の人々、声を上げない人々の存在を改めて我々に気づかせてくれたのは彼でした。我々が自らの過去と向き合うために、我々の一員として我々すべてに手を差し伸べたのです。彼がいない1年間はとてもさびしく、彼がいないことはとても悲しいことです」

■ラケル・ディンク「正義には勇気が必要」
アゴス紙社屋の窓からスピーチをしたフラント・ディンクの妻ラケル・ディンクさんは、「願わくば夫が生かされて、服役していたらと思います。もし生かされていたのなら、今日はトルコ刑法第301条による服役3ヶ月目になっているはずだったからです」と話した。

ラケル・ディンクさんは、この1年、流血がまったく止まることがないと話し、次のように述べた。
「流血の声は正義によってのみ沈黙します。今日、あなた方も正義のためにここにいらっしゃるのです。私たちは常に悲しまされてきました。
殺人に使われた凶器の製品名まで知っている軍警察に対して、殺人計画が練られた組織に対して、この国の正義は何をしたのでしょうか?
私の夫に度を越していることを知らせようとした副知事、そしていわゆる我々の親しい人々にこの国の正義は何をしたのでしょうか?」

■「写真の中の子ども」
アゴス紙の今日の一面には、フラント・ディンクの子ども時代の写真と共に、次の文章が掲載された。

「みんなと同じように彼も子どもだった。ちょうど私たちと同じように、彼も子どもとして人生を出発した。心に秘めた、見てもらいたい、耳を傾けてもらい、愛されたいという思いとともに。

ある日、ひとりのおじさんが写真を撮影するためにやって来た。その子はいつも写真に大きく写りたがった。一歩前に出て、腕を広げ、まるで自分の存在を記録に残したかったのかのように。その腕はたいていの場合、他の人々を見守り、抱きしめ、安心させるためにあった。しかしまた同時にその腕はそんなふうに大きく広げ、人生とダンスするためにもそこにあった。

その子は、自分が他と異なることに気づいていた。それは楽しくもあり、またそれゆえ恥ずかしいと感じたこともある違いだった。皆と平等となること、不公平に振る舞わないこと、公平に行動すること、良心に耳をかたむけることを彼は好んだ。これをさらにうまく実践することを確信していた。あなたは何をやっても違っていた。望んでいなくとも、写真に印がつけられるほどに違っていたのだ。

人生は彼の前にひとりの写真家として登場した。一歩一歩が何であるか、誰であるのかを突き止めることに疲れをみせないひとりの写真家。その子はそれをするのに準備万端だった。瞳の輝き、固く結ばれた唇で、「僕をもっと見てください」と語りかけていた。

人生は、それぞれの瞬間の動きを止め、互いに結びつけるという、自分の仕事をし続け、皆の成長を促した。そして皆は成長し、自分たちの中にいる子どもを抹殺した。

しかし、その子どもだけは写真家の目の中を見たのだった。人生の意味を、まるで自分の細胞から伝わる直感でつかんでいるかのようだった。閉じ込められた瞬間から決して逃げなかった。その反対に、写真家に挑んだ。誰もが人生だと思っているものが、実際は死であることを知った。全ての写真が我々を過去のものにすることに気づいていたが、生きることが結局はその写真の中にいること以上のものではないことも理解していた。おそらくだからこそ、彼には全く写真家に対する恐れがなかった。怖くなかったからこそ、彼は成長しても子どものようだったのだ。

人生は望み通りに彼を成長させ、形作ることはできなかった。死は彼を脅かし、手のひらの中に受け止めることができなかった。

子ども時代が彼を守った。彼に永遠の命を与えたのは、子ども時代だった。彼の魂と良心を汚れのないものとして残した。

自分の中の子ども心をもう随分前に殺してしまった人々は、彼を前にして自分自身に無力感を感じた。失ってしまった良心と心の痛みを、彼から引き出そうとした。

本日また、我々はフラントで満たされた新聞を出す。あの子どもを恋しく思う。我々の中に住んでいる子ども時代の自分に触れさせてくれ、我々に再び命を与えてくれたその子どもを。死を前にして、微笑んでいられたその子どもを。

今日、我々の写真も撮られている。我々のひとりが最前列に出ようしたり、我々の一部が頭を横から出そうとしている。しかしあまり何かしようとしないでください。なぜなら、1枚1枚の写真は、今もフラントを撮り続けているのだから。広げられた両腕、輝く二つの瞳、固く結ばれた唇とともに」

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( 翻訳者:松岡聡美 )
( 記事ID:15608 )