İsmet Berkanコラム: 「なんなの、これ?」という人のための、エルゲネコン講義
2009年01月25日付 Radikal 紙

 土曜の朝、無気力の中で数人の友人が座り私達は話をしている。私達の中の一人が、彼の前にあった新聞の束から一紙を手に取ると一面に目をやり、「エルゲネコン捜査がなんなのか、まるでわからない」と言った。友人はエルゲネコンを批判的に見ており、さらには「この訴訟は反公正発展党(AKP)の人物らを脅すための訴訟である」という説を支持していた。彼に対し、私がそうであると信じ、これまで注視してきたエルゲネコンについて説明した。彼は納得したと思う。同じことを、今度はあなた方に説明したい。おそらくあなた方も納得してくれるだろう。
 トルコは、2003、2004年に非常に深刻なクーデターの試みを経験した。2003年7月、トルコ軍司令部は、つまり参謀総長と軍司令官らは、全国規模で陸軍・海軍大将らにある種のアンケート活動を行い、一人一人それぞれに質問がなされた。クーデターを実行しようか、と。大多数は、クーデターはその時点においては正当ではないと述べた。そのため試みは延期されたがそれがお蔵入りになることはなかった。
 クーデター構想を有し、それを最も支持していたのは二人の軍司令官だった。この二人の司令官は、参謀総長にクーデターを納得させようと努めた。最終的に2004年1、2月、キプロス会談の際さらなる説得が試みられたが、参謀総長が納得しないとその司令官のうち一人は「合法的」な路線を受け入れこの活動から完全に手を引き、もう一人は内側からクーデターを実行するのは不可能であると理解したためトルコ軍を外側からクーデターに押しやる計画を立て始めた。
 計画の本筋は次のようなものであった。AKP政府はEU加盟という目標に進んでおり、もし加盟交渉開始に成功すれば、AKPをいかなる他政党も政権から引き摺り下ろすことはできないだろうとこの頑固な司令官は信じていたのである。
 そしてその当時、EU加盟やキプロス問題の解決を支持していた新聞記者、作家、学者や実業界の代表者らに対し恐るべき反対キャンペーンが行われた。「カレン・フォッグ・チルドレン」はこのキャンペーンの極一部に過ぎなかった。例えば、現在もエルゲネコン捜査の対象となっているある司令官は「売国奴新聞記者」リストを作成し、同捜査の対象の別の人物はこのリストを流布させた。
 この記事の筆者を含む新聞記者や知識人らの名が「宣教師の手下」として暗殺リストに載り、そのリストのうちフラント・ディンクが殺害された。
 クーデターを画策する頑固な司令官の目的は、国民を民主的、平和的なデモにより表に引っ張り出し、クーデターを行うための正当な下地が徐々に形成されたことを軍に納得させることであった。国民を表へと引っ張り出すためには必要ならば流血を伴う挑発も行われ得たであろう。明らかになったクーデター計画にはこれが明確に記されていた。
 事実、2006年にはまずジュムフリイェト紙の敷地に爆弾が投げ込まれ、その後同じ集団が行政裁判所の裁判官らを襲撃した。葬儀は、その日までに行われた中で最も大規模な反政府デモへと姿を変えた。トルコ軍司令部は声援を送られ、プラカードで以って任務遂行へと促された。政府には野次が浴びせられ、大臣の中には実際に襲撃された者もいた。
 翌年次から次へと開催された「共和国集会」は集団的基盤をさらに拡大させた。集会への参加は信じられない程高かったが、例えばイスタンブルでの集会において「イスラーム法もクーデターもいらない」と言った者らはイズミルでは演壇にすら上げられなかった。
 見かけ上はクーデターに向け世論形成計画は上手くいっていたが、2007年6月にイスタンブルのウムラニエで発見された手榴弾が全ての流れを変えてしまった。
 エルゲネコン捜査はまさにこの組織の捜査である。誰が犯人であるのか否かは、私たちではなく裁判所が判断することであり、それも裁判終了後になされることである。だから捜査を蔑ろにしたり、自身が裁判所であるかのように立ち振る舞い、誰が有罪で誰が無罪かというような判断を下したりする真似はやめようではないか。

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( 翻訳者:岩根匡宏 )
( 記事ID:15651 )