連載:イスラーム法による統治の問題(2/3)
2009年02月01日付 Al-Ahram 紙

■ イスラーム法による統治の問題(2)

2009年02月01日付アル・アハラーム紙(エジプト)論説面

【ラガブ・アル=バンナー】

 もし政治的イスラームの諸団体が公正を求める人達や、宗教についてロマンチックな理解を持っている人達を引きつけることができ、そうした人達を煽ってそれぞれの国の統治システムへの嫌悪や敵意を広めるような影響力を確立できたとしても、宗教を真に理解し、真の宗教者を模範とし、甘い言葉に騙されない大多数の人々にとっては、政治的イスラーム諸団体の本当の目的は明らかだ。

 そうした団体の統治に従った国民の状態が行き着く先の例として、アフガニスタンの政権を取って以来ターリバーンが行ったことを見れば十分だろう。ターリバーンはイスラーム法の公正さも、柔軟さも、自由も何も適用せず、その反対を行った。その統治下でアフガニスタンは貧困と後進性を増し、抑圧し、自由を抑制し、最低限の人権すら女性から奪う、大きな監獄へと変わった。

 その行為は数日来、パキスタンでも繰り返されている。パキスタンのターリバーン運動が北西辺境州のマラカンド地域を支配し、シャリーアを適用するための計画を実行し始めたのだ。そして男性にあごひげを生やし、それを剃ったり整えたりしないようにとの命令を出した。同様に全ての人が頭部をターバン、あるいは大きなショールで覆うことを命令し、その命令に反した全ての人に厳しい罰を課した。もしその命令に違反して、客のためにひげを剃ったりしたのなら、床屋を爆破すると警告した。

また同じ時期に、世俗的な学問を教えていたとして二つの学校が爆破された。同様の理由によって数ヶ月間で爆破された学校の数は、189校に上ると新聞は報じた。そのことに関し、首相の報道官は、テロがパキスタンやその他の国々に広がっているとコメントした。

これは、イスラーム法を適用するというスローガンを掲げる政権が行うことの一例にすぎないし、過去にも現在にも複数の事例がある。一方で私たちは、イスラーム法の原則を立法の主要な源泉とするという憲法の文言に立法者は従うという、エジプト・モデルを持っている。国家の三権はそれに従ってきたし、数年前からは一つ一つ現在の法律の見直しも始めている。そして調査から、大半の法律がイスラーム法に反しておらず、社会の要求応え、個人間や個人と国家間の関係や行為を規定するために発布されたものであることが明らかとなった。それゆえ、現在の法律は社会や個人の公共利益を実現しているといえる。もし法律の中に、多かれ少なかれイスラーム法の原則に反していることを明らかに示すものが見つかったときには、政府、人民議会、憲法裁判所を経由してその法律は廃止される。憲法裁判所は憲法の番人として、イスラーム法にかかわる条文の適用をチェックしており、いくつかの法律を最終的かつ即時に廃止する決定を行ってきた。一方、推論や解釈の範囲で法学者たちの見解が食い違う法律に関しては、イスラーム法学の原理が求めている通り、公共利益に合致しているかどうかで判断される。
 
いくつかのイスラーム団体が、フランス法からの借用であると主張して全ての法体系を破壊し、完全に他の体系を作るよう求めているデマゴギーは、無知あるいは故意の無視の上に立つ呼びかけである。なぜならイスラーム法に反しない限りにおいて世界中の法を活用することに、立法者達は何十年も前から心を砕いてきたのであって、現在の法体系が完成するまでには長い歳月が費やされてきたのだ。現在の法律を全て無駄にして他の法律と取り替えることは、理にもイスラーム法にも適っていない。現在の法律は国と人間の公共利益を実現しているのだから。

 もしイスラーム法の適用というスローガンの使用が、宗教的感情におもねるための政治的手段であるのなら、理性ある人達がその事実を見過ごすはずがない。人間の生と死のあらゆる局面における関係や行為を整備している民法、商法、刑法、身分法といった何百もの法律が、彼らが呼びかけているような、全体的な破壊を必要とするものではない。もちろん、再検討や修正、改良の行為は止まることなく続くものとして。

 理性ある人達は、法の専門家たちが長い時間をかける研究、議論、話し合い、検討を経て一つの法が準備されることを知っている。従って、あらゆる法律の見直しには長い年月がかかり、イスラーム法と世俗法の法学者、経済学者など法にかかわる全ての分野の専門家達の大きな努力を必要とする。また世論が立法のプロセスに加わることも欠かせない。学識者の見解を取り入れることで、その法律が社会の要請と利益に適っていることを保証するためだ。

 政治的イスラーム主義者は、国家にはそれぞれ立法を特徴付ける政治的・社会的な哲学があるということを無視しがちだ。その哲学が経済政策や社会政策の道筋を描き、国家と市民の関係、国家と外国との関係を決めるのであり、同様に、公正が実現されるよう、市民間の関係を規定しているのである。

 それぞれの法律が客観的な状況の産物であり、その状況が変わるごとに、イスラーム法の原則に従いながら法律も変わる。しかしもし私たちが、これらの法律はイスラーム法であると言ってしまったなら、それらは永遠不滅の法律であることになってしまう。それによって私たちは社会に対し、成長と発展の停滞と硬直とを宣告することになる・・・しかもそれだけでは終わらないのだ。

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( 翻訳者:平寛多朗 )
( 記事ID:15920 )