ムーサヴィー元首相、第10期大統領選への出馬を表明
2009年03月11日付 E'temad-e Melli 紙

【政治部】イラン・イスラーム共和国最後の首相〔※1〕が、昨日正式に第10期大統領選への出馬を表明した。ミール・ホセイン・ムーサヴィー元首相は声明を出し、選挙戦への正式な出馬を発表、「今の時代はこれまでとは別の時代であり、参加が求められている」〔※2〕と強調した。そして「義務を果たすことができるよう、第10期大統領選への出馬の意思があることをお知らせする」と締めくくり、自分自身とその支持者たちの数ヶ月にわたる迷いに終止符を打った。
〔※1:首相職は1989年の新憲法制定時に廃止された。
 ※2:ミール・ホセイン・ムーサヴィーは1997年及び2005年の大統領選挙の際も出馬を打診されながら、それを固辞した経緯がある。この部分は、「今回出馬を決意したのは、これまでとは状況が変わったからだ」ということを意味しているものと思われる〕

 芸術家肌で、あまり穏やかではない時代にイラン内閣の舵取り役を担った政治家であるムーサヴィー氏は、1368年〔西暦1989年〕にイマーム〔・ホメイニー〕が死去した後、正式に政界から退き、政治的沈黙の道を選んだ。その一方で持ち前の芸術的精神や学術活動によって、時折紙面にその名が現れることもあった。しかしながら、同氏の存在がこの数ヶ月ほど目立った形で話題に上ったことは、かつてなかった。

〔中略:過去の大統領選挙でもムーサヴィーに対して出馬の打診があったが、ムーサヴィーはそれを固辞してきた、という過去の経緯が述べられている〕

 しかし今回、状況は当初より少し異なっていた。というのも、ミール・ホセイン・ムーサヴィー氏が出馬しないと断言したことは、恐らく一度もなかったからだ。同氏のメディアを通じた広報活動が大々的に行われてきたことも、こうした状況の違いを証明している。何れにせよ、ミール・ホセイン・ムーサヴィー氏は20年の時を経て、俗世を離れた静寂な世界に別れを告げ、喧騒ばかりが印象に残る世界に足を踏み入れたのである。

 ミール・ホセイン・ムーサヴィー氏はイラン・イスラーム共和国第4代目の首相であり、かつ最後の首相でもある。同氏は1360~68年〔西暦1981~89年〕の8年間、内閣の長として国政の運営に携わった。同氏は、〔初代首相〕ラジャーイー氏と〔第2代首相〕バーホナル氏の殉教後に首相職に任命されたモハンマドレザー・マフダヴィー=キャニー氏の後継として首相に選ばれ、〔イラン・イラク〕戦争期を通じて首相職を務め上げた。

 ムーサヴィー氏は1320年〔西暦1941/42年〕にタブリーズのハーメネ〔イラン北西部〕で生まれ、1348年〔西暦1969/70年〕にメッリー大学(現シャヒード・ベヘシュティー大学)から建築学で修士号を取得、1358年〔西暦1979/80年〕から現在まで文化革命評議会評議員を務めている。

 ミール・ホセイン・ムーサヴィー氏は政界に身を置いていた間、首相、外相、イラン・イスラーム共和党中央委員、〔イスラーム共和党の機関紙である〕ジョムフーリーイェ・エスラーミー紙編集長、公益判別評議会委員等として活動してきたが、1377年〔西暦1998/99年〕以降は芸術アカデミー総裁を務め、この分野での活動に専念してきた。

 セイイェド・モハンマド・ハータミー大統領時代に芸術アカデミー総裁を務め、最近も公益判別評議会委員の座にあるムーサヴィー氏の出馬は、「原理派」対「改革派」というこれまでの選挙をめぐる方程式を、変化させうるものであることは確実だ。〔‥‥〕というのも、改革派勢力の大部分に加え、原理派勢力にもミール・ホセイン・ムーサヴィー氏は自分の側に属していると考えている人々がいるからだ。彼ら〔=一部の原理派〕は、同氏の考えは自らが言うところの原理主義に極めて近く、それゆえ自らにとっても信頼できる候補だと見ているのである。

 同時に、革命・戦争世代のノスタルジックな感情は、人気の絶頂期に政治から身を退いたミール・ホセイン・ムーサヴィーに票を投じるよう促す要素となり得よう。こうした潜在的な可能性は、原理派以上に改革派にとって利益をもたらすものであろう。

〔後略〕

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( 翻訳者:佐藤成実 )
( 記事ID:15986 )