反民主主義シンポジウムが開催:メスバーフ=ヤズディー、世界人権宣言の受け容れに反対を表明
2009年03月05日付 E'temad-e Melli 紙


【アリー・アシュラフ・ファトヒー】アーヤトッラー・モハンマド・タギー・メスバーフ=ヤズディーの弟子らが一堂に会し、師とともに「民主主義」について討論した。

 アーヤトッラー・メスバーフが主宰するゴムの「イマーム・ホメイニー教育研究所」主催のシンポジウム「宗教的人民主権」は、民主主義という現象に関するイラン、西洋、及びアラブの哲学者・理論家たちの信仰を批判する場に早変わりした。その中でアーヤトッラー・メスバーフ=ヤズディーが主導する思想学派の門弟たちは、イスラームと民主主義をいかに綜合すべきかについて、自らの見解を提示した。

民主主義の原理を受け容れることなく民主主義を受け容れる

 4時間にわたるこのシンポジウムの冒頭、イマーム・ホメイニー教育研究所で学び、同研究所のワークショップ「宗教的人民主権」のメンバーでもある政治学専攻の博士課程の学生らが、発表を行った。

 最初に発表したのは、同ワークショップの幹事を務めるセイエド・メフディー・セイエディヤーンさん。セイエディヤーンさんは自身ならびに友人らの研究成果について述べた上で、同研究所所属の研究者たちの重要な成果として、「まず民主主義を断固拒絶するアプローチを、《根本主義的・サラフィー(回帰)主義的アプローチ》として定義し、それとは別に民主主義の土着化を目指すものとしての、民主主義に対する《イスラーム法学者的アプローチ》を擁護した」ことを挙げている。
〔訳注:「民主主義に対するイスラーム法学者的アプローチ」とは恐らく、「公正で有識のイスラーム法学者が監督する形での民主主義」のことだと思われる〕

 ホッジャトルエスラーム・メフディー・アブーターレビーは、民主主義は「法の自己制定性」、「対話」、そして「選挙」の三つの原理にもとづくとした上で、「《法の自己制定性》は《神による法の制定》の否定を伴い、《対話》の原理は《信仰の重視》と明確に矛盾する」と指摘する。イマーム・ホメイニー研究所のアブーターレビー研究員はまた、民主主義の根源的理解は宗教的定理と矛盾するとの見方を示した上で、このような民主主義の原理を受け容れることなく、民主主義を実現することは可能だとの考えを示している。
〔※訳注:「ホッジャトルエスラーム」は「アーヤトッラー」よりも2ランク下の宗教指導者に対する尊称。アーヤトッラーよりも1ランク下の宗教指導者は、「ホッジャトルエスラーム・ヴァルモスレミーン」と呼ばれる〕

 ワークショップ「宗教的人民主権」のもう一人のメンバーであるホッジャトルエスラーム・ハムゼ・アリー・ヴァヒードマネシュは発表のなかで、個人的・集団的専制はいかなるものであれ、宗教的人民主権の概念と矛盾するとの見方を示し、宗教と民主主義を綜合させる唯一の方法は人民主権に対する「イスラーム法学者的アプローチ」に他ならないと指摘する。

 ヴァヒードマネシュさんは「国民の票こそ規準なり」というイマーム・ホメイニーの有名なことばについて、このことばはイスラームの枠組みを前提とした場合にのみ受け容れることができるものだとし、その証拠としてイマーム・ホメイニーの発言を引用している。

 彼はまた、モタッハリー先生の統治理論とアーヤトッラー・メスバーフのそれは、イマーム・ホメイニーの見方と相似的だとしつつ、イマームとアーヤトッラー・メスバーフ=ヤズディーの理解には一点だけアプローチの違いが存在すると指摘する。それによると、師メスバーフ=ヤズディーは被選挙人だけでなく、選挙人にも〔体制への〕コミットメントと専門知識という条件が認められるべきであり、他方「国民の投票権」なるものは「法学者の後見人」〔社会の後見人たるイスラーム法学者のことで、最高指導者を指す〕への諮問のためにのみあるのであって、それゆえ「投票」なることばに「権利」という名辞を付加するというのは矛盾でしかない、と考えているという。

イマームは統治の正統性が人民に依拠するとは考えていなかった

 これらの論考が発表された後、アーヤトッラー・メスバーフ=ヤズディーが民主主義と宗教をいかに綜合するかについて、持論を展開する番となった。同師は、多くのムスリム知識人が輸入物の思想に対して取った受動的な態度について、次のように指摘する。
多くのイスラーム知識人は人権や民主主義などの概念を提起した後、逸脱や偏向、知的停滞・石化などの非難を避けるため、このような概念はイスラームにももともと存在したのだなどと主張した。西洋人はわれわれからこれらの概念を学んだのだなどと主張する者すらいた。これこそ、われわれムスリムが示した極端なまでに受動的で醜悪な姿に他ならない。このような輸入物の概念に対して、すべからく服従するようなことがあってはならない。

 アーヤトッラー・メスバーフは神学生や宗教指導者らに対し、これらの現象に対して完全拒否の態度を取るようなことは避けるべきだと主張した上で、次のように述べた。
完全否定の立場も、イスラームとクルアーンの道と調和しない。例えば、イスラームはキリスト教の三位一体に強く異議を唱えているが、思想的共通性について彼らと対話することに関しては、それを望んでいる。われわれは他者に対して、共通点を探り、対立点については共通点に照らして解決を図るような対応を取らねばならない。

 メスバーフ=ヤズディーは続けて、民主主義や人権宣言に対する自らの考えを、次のように明示する。
人権宣言を完全に受け容れることは、イスラームの刑法、特に死刑や斬手刑を否定することを意味する。イスラームの枠組み〔を護持すること〕が、民主主義や人権を受け容れる条件である。他国でも、民主主義の受容は各国の憲法によって制限されているのと、まったく同じことだ。

 アーヤトッラー・メスバーフ=ヤズディーは演説のなかで、イマーム・ホメイニーは統治の正統性は人民に依拠するとは考えていなかったとする持論を再度展開、これまで以上に語気を強めて、イマームをはじめとする革命期の宗教的権威が純粋な民主主義に信を置いていなかったことを、次のように述べて指摘した。
イマームは西洋の思想に対して、問答法を用いた。例えば、同師はバフマン月12日のベヘシュテ・ザフラーでの演説〔1979年2月1日のホメイニーのイラン帰国直後に行われた演説のこと〕のなかで、問答法を使ってシャー体制の正統性を疑問に付した。

イマームは人民の票に〔統治の〕正統性を付与する力はないと考えていた。しかしこの演説のなかで、問答を活用してシャー体制の内的矛盾を詳らかにした。イマームのこの手法は決して受け身のものではなく、完全に理知的かつクルアーン的な手法であった。神も偶像崇拝者の信仰に疑問を投げかけるために、彼らが受け容れている概念を利用した。

革命前の宗教的権威らが出した声明の中で、シャー体制の非民主的性格が指摘されているが、これも問答法によるものであり、彼らが民主主義を信奉していたわけではない。我らが宗教的権威は、相対する側が受け容れている信仰を逆手にとって、彼らを論難したのである。

 メスバーフ=ヤズディー師は演説の最後で、アメリカ式の民主主義がムスリムに強要されていることを批判した上で、「今日アメリカは他国に圧力をかけるために、被選挙人に対していかなる条件も課すべきではないと主張している。もし民主主義が、あらゆる制約の不在を意味するのであれば、それはイスラームとは調和しない」と論じた。

「法学者の監督」は体制の民主的柱とは異なる

 シンポジウム「宗教的人民主権」の最後では、イスラーム神学校所属の3人の研究者による専門的なパネルディスカッションが行われ、宗教的民主主義に関する各自の見解が披露された。

 かつてイギリスの某大学から政治哲学の分野で博士号を取得したこともあるホッジャトルエスラーム・ハミード・ハージー=ヘイダル博士が、パネルディスカッションでの議論の口火を切った。同博士は、「セキュラリズム(secularism)」とは「宗教からの逃避」を意味するのであって、この語を「世俗主義」と訳すことは適切ではないと指摘、さらに西洋の思想家たちは皆、民主主義を本質的に「セキューラー(secular:世俗的な、非宗教的な)」なものであると考えていると断言する。

 ハージー=ヘイダル博士は続けて、宗教と民主主義をいかに綜合するかに関し、自らの唱えるモデルを提起し、「〔イスラーム共和国体制の基盤的イデオロギーである〕《法学者の監督》論は、イスラーム共和国体制を〔もう一方で〕支える民主的柱とは異なるものである。なぜなら〔法学者の監督論で国家を指導・監督する義務を負うイスラーム法学者=最高指導者は〕競争を通じて選出されるものではなく、また〔その地位は〕終身職であるからだ」と主張する。

 自信満々な態度で断定的な物言いをするハージー=ヘイダル博士は、「純粋な人民主権」に対して自身がなぜ反対の立場を取っているのか説明した上で、「宗教的に制限された人民主権」を実現するために、現行憲法の改正が必要だと訴える。

 「非民主的制度は民主的制度に優先されねばならない。45名のイスラーム法学者からなる上院を設置し、人民によって選ばれた下院に対して優先されるようにすることが必要だ。もし現状がこのまま続けば、好ましい成果が一向に得られぬまま、不毛な議論が繰り返されることになるだろう。議論や解決策は明瞭なものでなければならない。我が国の政治哲学の主要な問題は、議論を正しく審査・選別する〔仕組み〕が欠けていることである。宗教的民主主義に関する理論の根幹は、神の創造力と知にある」。

 ハージー=ヘイダル博士はまた、アーヤトッラー・メスバーフが提示した「問答法」についても、次のように批判する。「民主主義の限定的受容という師の議論の根幹部分については、私もそれを称賛するが、しかしその中身については異議がある。われわれは他者との論争を追い求めるのではなく、社会をいかに運営するのか、その方法を提示しなければならない」。

 ゴムのバーゲロル・オルーム大学学長で、イマーム・ホメイニー研究所ワークショップ「宗教的人民主権」の主幹を務め、今回のパネルディスカッションの学術責任者でもあるホッジャトルエスラーム・ヴァルモスレミーン・アフマド・ヴァーエズィー博士は、パネルディスカッションの結論を総括しつつ、自身の見解として「われわれは純粋な民主主義ではなく、限定された民主主義を擁している」と述べた。

 ヴァーエズィー師は宗教的人民主権をめぐる議論で主な問題点となっている部分に関し議論するなかで、イスラーム共和国体制に存在する「宗教」と「人民」、「宗教」と「国民の意志」という権威の二重性の問題を指摘、イスラーム共和国憲法によれば「人民の主権」は「宗教の主権」の下位に置かれていると論じる。

 しかし真の問題はどこにあるのか?重要なのは、この二つの権威のバランスを取るためのモデルとはいかなるものでありうるのか、という点にある。ヴァーエズィー師は、次のようなことばでパネルディスカッションを締めくくっている。「われわれは道を歩み始めたばかりだ。まだ先は長い。西洋も現在のモデルに到達するまでに、長い道のりを歩んできた。それゆえ、われわれも意見の多様性を恐れてはならない」。

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( 翻訳者:斎藤正道 )
( 記事ID:16008 )