ミール・ホセイン・ムーサヴィー、立候補表明後初の演説を行う(その1)
2009年03月16日付 E'temad-e Melli 紙
【セルゲ・バーレスギヤーン】ミール・ホセイン・ムーサヴィーは大統領選立候補表明後初となる演説を、ナーズィーアーバード〔※1〕地区のホセイニーイェ〔※2〕「ホッジャト」で行った。ナーズィーアーバードは、同地区で青春時代を過ごしたかつての若者たちの多くが、現在改革派の政治関係者として有名になるか、あるいは殉教者として通りに名が刻まれているかしている、いわく付きの場所だ。
「聖なる防衛」〔イラン・イラク戦争のこと〕の時代に首相を務めたムーサヴィー氏は、20年間の沈黙後初めての市民集会の場所として、この地区を選択した。「ナーズィーアーバード、そしてこの聖なる場所でお話しする機会を得られたことを光栄に思います。ナーズィーアーバードは殉教者たちの血によって、イスラームとイランに対する自らの忠誠を証明した場所です」。
ムーサヴィー選挙事務所の関係者に加え、ファルシャード・モオメニー、ホセイン・ラーグファルといった経済学者らも、このホセイニーイェに集まっていた。プログラムは土曜日の19時30分に、預言者ムハンマドの生誕を祝う参加者らによるクルアーンの合唱ともに始まった〔※3〕。そしてその20分後、出席者らによる「ムハンマドとその一族に神の祝福あれ」、そして「ミール・ホセインは永遠なり、次期大統領なり」「ムハンマドに祝福あれ、ホメイニーの友がやってきた」〔※4〕といったシュプレヒコールとともに、ムーサヴィー元首相が入場した。
〔中略〕
会場となったホセイニーイェの内外では、「お前の登場で、われわれは早くも岸辺に着いた」〔「ムーサヴィーの立候補表明によって、われわれはすでに勝利を収めたも同然だ」という意味だと思われる〕、「春の心地よい薫りがイマーム〔・ホメイニー〕の友とともにやってきた」、「ムーサヴィーは英雄なり、労働者の味方なり」〔※5〕、「ムーサヴィーはすでに準備万端だ、イマームの思い出が甦った」などと書かれた横断幕やプラカードが掲げられ、出席者たちも口々に「ムーサヴィーは英雄なり、被抑圧者の味方なり」、「ムーサヴィー、ムーサヴィー、われわれはお前を支持する」などのシュプレヒコールをあげた。
ミール・ホセイン・ムーサヴィーは20時15分に演説を開始、革命が30周年を迎え、新たな10年に突入したこと、そして今日がイスラームの預言者の生誕記念日であることなどに触れた。その上で、彼は自由をめぐる議論については別の機会に譲るとして、まず「独立」をめぐる問題について議論した。また彼が45分間に及ぶ演説の第二の柱として議論したのは、「ムハンマド的純粋イスラーム」とその原理・条件に対するイマームの定義をめぐる問題だった。
ミール・ホセイン・ムーサヴィーの議論の中で、何にも増して新たな形で繰り返されたのが、「チャンス」ということばだった。ムーサヴィーが首相を務めていた時代の空気は、「抵抗」、「自己犠牲」、「危険」、「脅威」などといった語彙に満ちたレトリックを求めていた。土曜日の演説でも、これらの表現が同氏の主な語彙を構成していたことは事実だ。しかし演説の端々で強調されていたのは、「チャンス」ということばだった。
「われわれは独立の恩恵を十分利用してきただろうか」
「聖なる防衛」時代の首相はまず、イスラーム共和国体制が手に入れた成果について指摘することで、演説を始めた。
イスラーム革命は、多くの成果をもたらした。もちろん、さまざまな問題をともなったことも、疑いの余地のない事実である。革命前との比較で変化した点に着目するならば、その他さまざまな変化にも増して、イスラーム革命が独立と自由の恩恵をもたらしたことを指摘できよう。
ムーサヴィー元首相は革命期の人々の主要なスローガンであった「独立、自由、イスラーム共和国」に言及し、独立が国に何物にも代え難い「チャンス」をもたらしたと指摘した上で、次のように語った。
独立は比較的大きな恩恵を、イスラーム共和国にいまだ与え続けている。混乱と脅威に満ちた世界にあって、独立はわれわれにさまざまなチャンスを与えてくれている。革命前、我が国の各種機関には何万人ものヨーロッパ人顧問がいた。イランはソ連という名の超大国を取り囲む西洋の防衛ラインの一翼を担っていた。われわれは西洋諸国、特にアメリカから見た場合、西洋の防衛ラインにとって小さな、しかし極めて重要な歯車であった。そのため彼らは、地域においてイランが果たすべき役割を、つねに監視していた。
われわれは地域情勢全般にわたり、ある一つの巨大システムの一員として、西洋に奉仕していた。52年〔西暦1973年〕以降、石油収入が一挙に増加したときも、イランにはペルシア湾における西洋の憲兵としての役割が与えられ、イランは西洋の代理人として、自由を求める地域の運動に敵対した。当時のイランは、国益を犠牲にしてでも、この役割を果たしていた。
ムーサヴィー元首相はこのように述べ、さらに当時イランがアメリカから兵器を購入していたことについて、通常の状況で行われたものではなかったと指摘した上で、次のように語った。
例えば、空軍の兵器購入には専用の銀行口座があり、そこには100億ドル以上の資金が蓄えられていた。アメリカは自らの判断で、そこから〔自由に〕代金を引き出し、われわれにパーツなどを送っていた。〔イランの〕関係者には、口座に手を付けることはできなかった。彼らは下僕そのものだった。この問題は、いまだにハーグの裁判所で争われており〔※6〕、最重要のイラン関連問題となっている。国の意志決定のほとんどが、あの国々〔=西洋諸国〕の在イラン大使館によって影響されていたのだ。
ムーサヴィー元首相はまた、独立の成果との関連で、イラクとの戦争を次のように振り返っている。
もう一点、聖なる防衛をめぐる問題がある。われわれ全国民がこの防衛に参加した。もし国民の支援や抵抗がなければ、われわれは今頃世界の別の場所にいたかも知れない〔=イランという国は滅んでいたかも知れない〕し、そもそもイラン人などいなくなっていたかも知れない。聖なる防衛をめぐる問題であまり注意を払われていない点として、次のようなものがある。〔19世紀前半の二度にわたる〕イランとロシアの戦争で、我が国土のかなりの部分〔現在のグルジアやアルメニア、アゼルバイジャン共和国にあたる部分〕が分離していった結果、我が国には外国に対する恐怖が生まれた。この恐怖は、イランを支配していた政府や国王たちの軟弱ぶりと相まって、時とともに国土の半分以上を失うという事態を招いた。この問題はパフラヴィー時代にも続いた。
ムーサヴィー元首相によれば、聖なる防衛は死に対する恐怖、抵抗することに対する恐怖を我が国から取り去ったという。人々はイスラーム国家を守るために死に立ち向かい、恐怖を自らの内側から駆逐したというのだ。
人々は崇高な価値のために、また自らの宗教を守るために、死に立ち向かった。死を直視し、恐怖を取り去った。聖なる防衛の後に生まれた国民は、さまざまな困難や大国をも恐れぬ勇気をもった国民であった。これは国の防衛にとって、われわれの最大の資産となっている。この感覚こそ、戦争後の過去20年間のわれわれの最大の防衛手段である。なぜなら、抵抗することへの恐怖こそ、大国に抗して国の独立を守ることを阻む要因だからだ。
ムーサヴィー氏はこう語り、さらに次のように続けた。
独立は、国民にプライドを与えるだけでない。独立はまた、発展と進歩のための大いなるチャンスを作り出す。独立なしに、またこのような資産をもたらした聖なる防衛なしに、ミサイル産業や核技術におけるわれわれの進歩はあり得なかった。このような進歩を成し遂げるチャンスは、国の独立があって初めて可能となるのであり、これこそが独立がわれわれにもたらしたチャンスなのである。同時に、次のような疑問を提起することもできよう。すなわち、われわれは独立の恩恵を十分利用してきただろうか、と。果たして、われわれはこのチャンスを利用し、10%以上の成長率をテクノロジーや経済の分野で遂げてきたアジア諸国との距離を縮める〔※7〕ことができたであろうか、と。
「政府関係者は批判に耳を傾けようとしていない」
ミール・ホセイン・ムーサヴィー元首相はさらに、〔ハーメネイー最高指導者がイランの長期目標として策定した〕「イラン20年ビジョン」文書に言及し、次のように述べた。
イラン20年ビジョンという最重要文書は、20年間でイランを地域でもっとも強い国に押し上げることを掲げた、われわれにとって一つのガイドとなる文書である。われわれのいる地域では、発展と進歩をめぐって競争が起きており、この分野で進歩を遂げることは、われわれにとって死活的重要性を有している。つまり、単に雇用や経済発展という問題にとどまらない側面がそこには存在するのだ —— もちろん、雇用問題や経済発展はわれわれにとって極めて重要だが ——。
もし自らの独立、〔領土の〕一体性、そして国民性を守り、また固有の宗教的価値観を保ちながら世界で存在感ある国となることを目指すのであれば、この文書は極めて重要である。しかし、我が国の政府関係者がこの問題にきちんと注意を払っているのか、疑問の余地がある。なぜ政府は20年ビジョン、ないしは関連する政策に対して怠慢であるのかといった批判に、きちんとした注意を払っていない。自らの方法を改善するためには、〔批判に対して〕不注意であってはならない。
ミール・ホセイン・ムーサヴィー元首相は「チャンス」・「困難」に加え、イランが地域において直面する「危険」についても、次のように表現している。
今ある危険の一つに、大中東構想というものがある。アフガニスタン及びイラク攻撃の後、この地域をアメリカに完全に従属したブロックにし、そうすることでイスラエルの立場を強固なものにし、二大経済大国であるアメリカと中国にとって好都合な状況を作り出そう、イラン問題もその中で可決しようという構想が、かつて実行に移されようとしていた。アフガニスタン及びイラク人民の抵抗によってこの構想が誤ったものであることが判明し、今となってはすっかり忘れ去られてしまった感があるが、しかし今後を見据えるならば、この危険はいまだ消えてはいない。
つづく
訳注
※1:ナーズィーアーバードは、
アッバース・アブディーや
サイード・ハッジャーリヤーンなど1979年の米大使館占拠事件を主導したホメイニー支持派の過激な学生たちを輩出したテヘラン南部の地区として有名。彼らの多くは、革命防衛隊などの結成に大きな役割を果たしていったが、ホメイニー死後「改革派」の中核をなすようになる。なお、ナーズィーアーバードとは「ナチスの住む場所」という意味で、レザー・シャーの時代、ナチス・ドイツ関係者が多くこの地に駐在したことにちなむ。
※2:ホセイニーイェは、第三代イマーム・ホセインにまつわる行事を行う宗教施設のこと。1960年代以降、ホセイニーイェは政治的演説・集会の舞台となってきた。
※3:演説が行われた3月14日土曜日は、預言者ムハンマドの生誕日にあたる。
※4:ムーサヴィーが首相を務めていたときは、ホメイニーが存命中で、同氏はホメイニーの厚い信頼を勝ち取っていたとされる。
※5:ムーサヴィーは首相時代、経済に対する国家統制を推し進めた。ホメイニーの死後、ハーメネイーが最高指導者、ラフサンジャーニーが大統領になると、キャッルービーやムーサヴィーといった左派は権力の地盤を失っていき、経済も1990年代以降自由化されていく。それ以降、イランでも貧富の格差が拡大していった。
※6:アメリカが革命後、イランの在米資金を凍結したことに対し、イランが凍結の解除と資金の返還を米大使館占拠事件以降、一貫して求め続けていることを指すものと思われる。
※7:原文では、「距離をより大きくする」とあったが、文脈、及びムーサヴィーの演説内容を伝えるその他の報道から、「距離を小さくする」の誤りであると判断した。
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( 翻訳者:斎藤正道 )
( 記事ID:16102 )