トルコ国民の定義は、映画「二つの言葉とひとつの鞄」にある
2009年04月19日付 Zaman 紙
トルコ国民(Turkiye halki)の意味するところを深い部分で探る必要はない。イルケル・バシュブー参謀長官が行った先の火曜日の会見の後に、我々が議論した問題は、共和国の歴史を通して存在し、(そして今もなお)存在し続けている「二つの言語、ひとつの鞄であること」の物語の根拠についてのものなのだ。バシュブー参謀長官の言う『トルコ共和国』を築いたのは誰なのか。
「答えは、トルコ国民である」という発言に関して、明白な現実と向きあうために、毎年恒例のトルコ軍の総括会議を始めから最後まで聞くや否や、すぐにベイオール(注:イスタンブルの繁華街)へ赴き、第28回国際イブタンブル映画祭へ駆けつけることで十分であった。『二つの言語と一つの鞄』という題名のドキュメンタリー映画に映し出される実際の人々の生活は、東部に存在する大きな問題を多角的に描き出し、そしてとても詳細に写し出した写真のようであった。この映画の中では、大学を卒業したばかりの若い教師が強制的に決められた赴任先の村の学校で、知らない言葉で話す子どもたちに、しばしば苦労しながら、時には面白く、しかし多くが悲喜こもごもの中で、子供たちが知らない言葉で教えなくてはならない様子が描かれている。この映画を制作した若手のオズギュル・ドアン監督が述べるように、「(映画の中の)エムレ先生も、子どもたちも、そこにある馬鹿ばかしさの犠牲者なのだ」
『二つの言語と一つの鞄』は、新卒の若い教師が強制的に決められた赴任先のクルド人の村で、トルコ語の単語を一つも知らない生徒たちと過ごした1年間を伝えている。監督をオズギュル・ドアンとオルハン・エスキキョイが務めたこの映画においては、すべてが事実である。村も、エムレ先生も、生徒たちも、そして村人たちも。さらには映画の中で起きたすべての出来事も。この映画はデニズリ出身のエムレ・アイドゥンが絹製のスカーフをかぶった男たちで一杯のミニバスで赴任地へむかい、鞄を手にデミルジ村へ降り立ったところから始まる。それ以前に東部のどの村にも行ったことのないエムレ先生の最初の日々は、寝泊まりする宿舎の汚れや虫を掃除することで過ぎてゆく。困惑は膝の高さに至るほど。しかも母親と電話で話す際にはこのような表現まで用いている。「最低でも水はあるだろうと思っていたけど、それすら無いんだ!」
実際の苦悩や憂鬱は、村の家々を一軒ずつ回って生徒たちを学校に集めた後に始まる。なぜなら子どもたちはトルコ語を知らず、エムレ先生もクルド語を知らないからだ。年齢が少し上の子どもたちはわずかにトルコ語を理解できるが、彼らでさえもトルコ語の問いにクルド語で返事をする。エムレ先生は遭遇した状況に驚き、何をすればいいのかわからないでいる。互いに理解し合うことのできない生徒たちに、何を教えることができるというのだ?知らない言葉で話す子どもたちに、彼らの知らない言葉を教えなくてはいけない。このようにして、数学や理科といった授業を脇に追いやり、子どもたちに1年間トルコ語を教えることを決意する。青色の制服の上に付けられている白い襟に書かれた“A,B,C”の文字で、クルド語だけしか話せない生徒たちに精一杯トルコ語を教えようとする。しかし、これは簡単にはいかない。その難しさはエムレ先生を鬱にさせるほどだ。なぜなら7,8歳の子どもたちの、まるで40歳であるかのような擦り切れた手から紡がれる文字は、容易にトルコ語にはならないからだ。
『二つの言語と一つの鞄』を鑑賞した後に、映画監督の二人の内オズギュル・ドアン氏とベイオールで会い、映画の出発点について尋ねた。そして実際の人物と、実際の出来事を伝えるこのドキュメンタリーが、これまた実際の体験談から始まったことを知った。若手監督であるオズギュル・ドアン氏は、映画で我々が観た先生と生徒たちの間で起こる言語の問題と同じようなことを、さらにはもっと悪いことを経験したと言う。「私はムシュ県のヴァルトル出身です。トルコ語を知りませんでした。先生はトルコ語を勉強しましょうと言い、私たちがクルド語を話すことを禁じました。トルコ語を知らない祖父と祖母の暮らす家においてでさえもです。トルコ語をまったく知らなかったのにですよ!クルド語を話すたびに殴られました。その記憶がよみがえってきたのです。ある日いとこと一緒にいると、経験したことを一から語ってくれました。そして膨大なシナリオを書きました。そもそもいとこが語ってくれたことと映画のなかの出来事は9割方同じです」
映画を撮ることを決めたときに、困難なプロセスは始まったという。(撮影に)適した村と教師を見つけるために長い間奮闘したという。もちろんその一方で制作予算に見合うだけのお金を工面する問題にも苦労したらしい。シナリオを、新人の監督たちを支援するプロジェクトのグリーンハウスに応募もした。そこでのセミナーから首席で出ると、わずかながらも経済的援助を得た。オランダ人の共同制作者を見つけると、次は映画の撮影地と教師を見つける段階へ入った。2007年の8月に、まずヴァルトを見て回った。(そこで)適地を見つけることができないと、シャンルウルファで探そうと方針変更した。1週間で約60の村を歩き回った。自分たちが伝えたいことはこの村にある、と確信すると、今度はふさわしい教師を探し始めた。村々へ足を運んだ。すべての教師が赴任地で最初に集まる、郡の中心地にある教員宿舎は、彼らにとってある種キャスト候補者をそろえたエージェントであった。まずヴィランシェヒルの教員宿舎に滞在したが、そこでは適当な教師を見つけることができなかったことを述べるオズギュル・ドアン氏は、デニズリ出身のエムレ・アイドゥンさんがどのようにして白羽の矢を立てられたのか、以下のように述べる。「われわれが望んだような人物は見当たりませんでした。一部の人は映画の内容や雰囲気を表現できるようなタイプではなかったし、また一部も強烈なキャラクターではなかったし、また気乗りしない人もいました。何人かの教師はよかったのですが、彼らが赴任している村は映画には適していませんでした。シヴェレキを少し見てみようと言ったのです。そしてそこの教員宿舎の庭でエムレさんを見ました。落ち込んでいるような雰囲気がありました。おそらく彼は“ここにいる必要は無かった”と考えていたのでしょう。彼にオファーしました。彼もそれを受けてくれました」
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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:16242 )