ロクサーナ外交(2)
2009年04月20日付 E'temad-e Melli 紙

「ロクサーナ外交(1)」のつづき

 さて、ロクサーナ・サーベリー氏の逮捕・判決が国内外のメディアで反響を呼んでいるのとは反対に、イラン人ブログ作家ホセイン・デラフシャーン氏はほとんど報道に取り上げられることのないまま逮捕され、現在に至っている。

 ホセイン・デラフシャーン氏もロクサーナ・サーベリー氏と同様、ジャーナリストであった。彼は1353年デイ月17日〔1975年1月7日〕、テヘランの宗教的で伝統的な家庭に生まれた。彼の父親はイスラーム連合協会の熱烈なシンパで、同協会の指導者たちとも親交を結ぶなど、彼の家庭の政治路線は明快だった。にもかかわらず、ホセインは父とは異なる道を歩むことになる。

 父との〔政治路線上の〕決別は、当然のようにセイエド・モハンマド・ハータミー大統領による改革派政権の誕生後、さらに明確なものとなっていく。彼はシャムソル・ヴァーエズィーン氏が編集長を務めた〔改革派の〕アスレ・アーザーデガーン(自由人の時代)紙といった新聞に合流し、インターネット版特別ページを立ち上げるなど、当時としては新しい試みを行っている。このインターネット版のページやコラムなどは、新聞が発行停止になると同時に、別のサイトに移っていった。

 しかしホセイン・デラフシャーン氏が有名なのは、新聞紙上で書き残してきた内容よってというよりはむしろ、彼がイランにおけるブログの普及で指導的立場にあったことによる。彼はイランにおけるブログ書きの先駆者の一人であり、「自身が編集長」という題のブログを通して、ブログの書き方や立ち上げ方の指導を継続的に行ってきた。イラン人ジャーナリストが徐々にブログ作家に転身し、若者の間でブログが普及し、政治関係者の間にもブログが広がっていったきっかけを、彼は作ったのである。

 ホセイン・デラフシャーン氏は右派に対して、辛辣な言論を繰り返した。彼はセイエド・モハンマド・ハータミー氏に対する批判には、いかなるものであれ、もっとも辛辣な言葉で応酬した。彼にとって改革派は特別な位置を有していた。

 デラフシャーン氏はプレスに対する発行停止処分をきっかけに、イランを後にした。2000年、彼はカナダに行き、その数年後、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)で学んだ。1384年〔2005年〕、大統領選挙でモスタファー・モイーン候補を支持するために、テヘランに戻った。彼はモイーン選挙本部に行き、アクバル・ハーシェミー=ラフサンジャーニー選挙本部にも近づいていった。

 改革派が勝利を逃し、マフムード・アフマディーネジャード氏が大統領になると、彼は再びイランを後にした。彼は一度ベルリンで開かれた市民社会をテーマとした会議で、次のような発言を行っている。「イスラーム共和国は、人民の大多数の投票によって正統性を得た。憲法もそうだった。様々な選挙でも、多くの人民が投票を行っている。‥‥私自身は、イスラーム共和国の不寛容さの犠牲者である。しかしだからといって、イスラーム共和国の正統性が失われるわけではない」。

 ホセイン・デラフシャーン氏はラーミーン・ジャハーンベグルー氏、ハーレ・エスファンディヤーリー氏、及びキヤーン・タージバフシュ氏が85年〔2006年〕に逮捕されるという事件が起きて以降、自らの政治的立場を転換し、アフマディーネジャード氏とその政権を支持するようになる。彼はなぜアフマディーネジャード氏を批判するのかと言っては、啓蒙知識人たちを厳しく批判し、女性運動を嘲り、改革派に辛辣な言葉を浴びせた。

 なかでも彼が批判したのが、ハーシェミー=ラフサンジャーニーと改革主義者たちであった。デラフシャーン氏のアフマディーネジャード氏に対する支持表明を前にして、政権を支持する若者たちのなかには、彼に好感を示す者も現れた。

 デラフシャーン氏はしかし、矛盾した行動を見せた。ヒズブッラーとイスラエルによる33日間戦争では、セイエド・ハサン・ナスルッラーを支持したかと思えば、イスラエルを訪問し、イスラエル探訪記を口頭・活字で発表するという行動に出たのである。その中で彼はラジオ・イスラエルの編集長と面会したことを明らかにし、互いの見解を披露している。

 にもかかわらず、彼はイランに帰国しても、アフマディーネジャード大統領を支持しているが故に、深刻な問題には何ら直面しないと考えていた。しかし昨年イランの地に足を踏み入れるや否や、彼はパスポートを没収され、期日までに治安当局に出頭するよう求められたのであった。デラフシャーン氏はテヘラン市内にいたとき、別のブログを立ち上げ、そこでテヘランで新たに目にした光景について書いている。彼はまたそこでも、マフムード・アフマディーネジャード政権に支持を表明し、国外で同大統領に対して反対運動を繰り広げているイラン人ジャーナリストらと口論を繰り広げている。

 ホセイン・デラフシャーン氏の逮捕がいつなのか、正確なことは分かっていない。彼が拘束されたとの報道が流れてから約2ヶ月後、やっとアリー・レザー・ジャムシーディー司法権報道官が87年デイ月10日〔2008年12月30日〕に正式に同氏が逮捕されたことを認めただけである。

 彼の家族はこれまでのところ、この件について何も話してはいない。マフムード・アフマディーネジャード大統領の〔今回のモルタザヴィー判事に対する〕要請によって、ホセイン・デラフシャーン氏の置かれた状況が今後改善され、しばらく後に釈放されることもあるかも知れない。

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( 翻訳者:斉藤正道 )
( 記事ID:16258 )