スカーフを被った人にトルコへ来て出会った―『オスマン帝国の女性』の著者インタビュー
2009年04月26日付 Zaman 紙


大学時代に知り合ったトルコ人と結婚したアスル・サンジャルさんは、その日までイスラム教徒も、スカーフを被った人も見たことが無かった。結婚後イスラム教徒になったサンジャルさんは、スカーフを被った人とはトルコに来て初めて出会ったという。サンジャルさんは、オスマン帝国の女性を研究するため、彼女たちを知るために長い間努力を続けた。多くの人に参照されている著書『オスマン帝国の女性(Ottoman Woman)』もこの研究の成果として執筆した。サンジャルさんに彼女の人生と著書についてのインタビューを行った。

■オスマン帝国の女性は賢明であったが、今日の女性は自身の権利に対して無知である

今から30年前、オハイオ大学で学んでいるときに出会ったトルコ人の青年が、彼女が知り合った初めてのイスラム教徒だった。その日までは、イスラム教徒の知り合いはおらず、スカーフを被った女性も見たことが無かった。24歳での結婚は、人生のなかの、もっとも大きな分岐点となるものだった。その後、イスラム教徒になり、そしてスカーフを被ったアスル・サンジャルさんは、オスマン帝国の女性を研究し、彼女たちについての知識を深めた。著書『オスマン帝国の女性』をこの研究の成果として執筆した。サンジャルさんが英語で書いたこの本は、現在『オスマン帝国の女性:物語と真実』としてトルコ語に翻訳された。
アスル・サンジャルさんに、現代とオスマン時代の女性たちについて話を伺った。

イスラム教徒になった経緯はどんなものだったのでしょうか?

―結婚を決意すると、夫はこの先生まれてくる子供がイスラム教徒になることを望み、そのために私にもイスラム教徒になることを望みました。私も了解しました。それがどういうことなのかは、そう決めたあとに調べ始めました。本を読み始めました。ですが、あまりたくさんの本もありませんでした。その時は、イルミハル(イスラム教の原則を説明した本)さえもありませんでした。英語・英文学科卒業でしたので、本を読むことには興味がありました。最初に読んだのは、マスナヴィーでした。

スカーフを被ることもご存知なかったのですか?

―いいえ、全く・・・。アメリカ合衆国にいたとき、スカーフは被っていませんでした。幾人かのイスラム教徒の友人はいましたが、彼女たちはスカーフを着けていませんでした。トルコへ来て、スカーフを被っている人を見るようになりました。とても幸運なことに、その時期に大変特別な、私にとって精神的な母となる人が出来ました。トルコに来て、コーランの勉強をしたいと思いました。すると、(精神的な母である)彼女はスカーフを被っています。私はイスラム教におけるスカーフ着用について、彼女に尋ねました。彼女は私に、スカーフを被ることはイスラム教の義務であると教えてくれました。けれども、「あなたは他の文化から来ているのだから、被りたいと思うそのときに着けなさい」と言いました。長くはかかりませんでした、彼女とその周りの全員が被っているのですから。私も徐々に、着る物の丈を長くし始めました。33歳のときでした、初めはボーン(頭にぴったりした帽子)を被り、後にすっかり頭を覆いました。

スカーフを被る女性に対する西洋の視線を、どのように感じていますか?

―様々な状況において(それらの視線に)ぶつかっています。特に9・11事件から始まった、西洋のイスラム教に対する否定的な視線にぶつかります。空港へ行くと、今では、わずかであっても否定的な雰囲気を感じます。以前は飛行機に乗るとき、何か問題が起こる事はありませんでした。しかし今では、特にスーツケースが以前に比べより慎重に検査されます。人々はイスラム教をよく知らないのです。そのせいで、残念なことに否定的な宣伝が起こっています。否定的な雰囲気がおのずと現れています。その一方で、私の若い時代にはなかった、興味深い諸文化を認めるという潮流も生れてきています。

スカーフを付けたアメリカ人として、アメリカとトルコのどちらでより困難な経験をされますか?

―なぜかあそこ(アメリカ)では、(人々は)私をアメリカ人として見ません。ただ私と親しくしている人たちだけが、私がアメリカ人であると知っています。他の人たちは、私がアメリカ人ではあり得ないと思っています。トルコでは多くの場合、肯定的な反応を受けます。多くの人が賞賛してくれます。もちろん、時にはその反対もあります。しかし、私はそれを自然なことだと受けとめています、トルコでこの問題に関する論争があるのですから。

著書を執筆するにあたって、オスマン帝国の女性の世界について、長い間調査を行ったそうですが、オスマン帝国の時代にいたら、あなたは女性であることを望んだと思いますか?

―この質問に答えるのはなかなか難しいですね。なぜかと言うと、(オスマン時代に比べ)今日の状況、視点はとても異なっているからです。その時代に行われていた慣行が、今日に実施されることを望みますが、しかしながら、いつの時代にもその時代に独特の背景や枠組みがあります。今行って、他の文化の中で生活することは、おそらくとても簡単なことではないでしょう。しかしその時代に女性たちが生活していたことを、新しい枠組みで実現することは望ましいと思います。なぜならオスマン帝国の女性について、多くの肯定的な事実がわかっているからです。そのときの原則を、今日新しい条件で実現させることをみました。

その肯定的な事実とは何でしたか?

―女性はまず、女性であることで敬意を払われていました。オスマン帝国の時代には、二つの異なる世界が存在していました。一つは男性の世界、もう一つは女性の世界で、両者はお互いに非常に異なっていました。オスマン帝国の女性たちは自身の世界では主であり、そしてその世界で頭角を現し、自分を表現するような自由をもっていました。
それは確かなことです。オスマン時代では女性、男性はお互いにライバルではありませんでした。今はただ「一つの世界」があり、そして女性と男性はこの世界で、お互いにとってのライバルなのです。加えて、女性は男性の作ったルールの中でこの競争に参加している状況です。まだトルコでは、他の多くの国に比べ、女性は母として敬意を得ています。しかしオスマン時代に比べ、これは減ったということが出来るでしょう。よい母になることは、もはや全ての女性の第一の望みではないのです。

今日の状況は、女性たちが望んでいるものなのでしょうか?

―今日では環境が変わりました。オスマン帝国の女性は、自分で自分を養う必要はありませんでした。なぜなら、生活費を稼ぐ責任はなかったからです。しかし今日では、女性の多数が望むと望まざるとに関わらず、男性との競争に参加しなければならない状況に立たされています。オスマン時代では離婚が生じた場合、女性は家族の元へ戻ることが出来ました。しかし今では、多くの女性にとってこれは可能ではないでしょう。現在、多くの女性は実家にもどることが出来ません。いまや、女性は、ただ働きたいから、という理由で働いているのではないのです。社会には、女性にこのような生活を押し付ける、そうした風が吹いているのです。オスマン帝国においては、家族、宗教そして法律は、女性の見方でした。オスマン帝国の女性は賢明であり、自分たちの権利を行使することが出来たのです。今日、状況は少し異なっています。多くの女性は自分たちの権利を知りません、知っていたとしても(それを使う)勇気を持っていないのです。

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( 翻訳者:西山愛実 )
( 記事ID:16297 )