故バヤル大統領の娘、クーデター当時を語る
2009年05月24日付 Zaman 紙


1960年5月27日のクーデターは、民主化の過程においてトルコを危機に陥れ、数千の家族を嘆き苦しめた。アタテュルクがイシュ銀行を共に設立したジェラル・バヤル元大統領の家族も、軍事政権の攻撃から自分たちを守ることが出来なかった。バヤルがヤッスアダの法廷で裁判にかけられているとき、家族も法廷の外で大きな困難に直面していた。

故バヤル大統領の娘であるニルフェル・バヤル・ギュルソイさんは、当時のことを私たちザマン紙に語るとき、涙が止まらなかった。クーデターの後、働いていたアンカラ大学言語歴史地理学部からの離職をずっと忘れることが出来ないという:「バヤルの娘であるという理由で、仕事を辞めさせられたのです。あの日のことを、今日のことのように思い出します。大学で教鞭をとることは、私の中でずっと苦い思いとして残りました。」


トルコで初の、文民出身の大統領であった故バヤル大統領は、592人がかけられた裁判の被告人の中にいた。バヤルは、破廉恥な裁判として歴史に名を刻んだヤッスアダ法廷で、アフガニスタンの王より贈呈された犬を、法外な値段で動物園へ売った罪で死刑の宣告を受けた。バヤルとその仲間が、11ヶ月の裁判の間に様々な拷問にあっているとき、家族たちもまた法廷の外で苦難を強いられていた。その最も生々しい体験者のうちの一人がジェラル・バヤルの娘、ニルフェル・バヤル・ギュルソイさんだった。ニルフェルさんは、クーデター後に、勤めていたアンカラ大学言語歴史地理学部を辞めさせられた。彼女がチェシュメの家で軟禁されていたのを知りながら、「仕事に来ない」という理由で職務から外されたという。しかし彼女によれば、本当の理由は他にあった。「バヤルの娘であるという理由で、私は仕事を辞めさせられたのです。あの日のことを、今日のことのように思い出します。大学で教鞭をとることは、私の中でずっと苦い思いとして残りました。」

ニルフェル・バヤル・ギュルソイさんは、彼女の父がクーデターを起した人物たちに連れて行かれた日を忘れられないと述べ、5月27日から、外の世界との関係を絶ったと語る。そして、ヤッスアダで拘留されている父親に、彼女の気持ちをたった50語の手紙で伝えるよう努力していたという:「私たちの手紙は全て検閲されていました。父は裁判所で自身を擁護するため、資産証明書を送ってくれといいました。父は、私たちが自由の身であると思っていたようでした。私たちも家で軟禁されているとは一度も話しませんでした。父に、自分の思いを伝える長い手紙を書くことは、一度も出来ませんでした。全てを自分の中に葬りました。」

■「母は一晩中、部屋で祈っていました」

ヤッスアダ法廷で下された死刑判決が、家を悲愴な雰囲気へと変えたと話すギュルソイさんは、その日のことを以下のように語る:「医師たちが、母と私に薬を与えました。その薬の作用で、私たちはまるで凍ったような状態になりました。周りを見ます、話します、しかし感覚がありませんでした。まるで、自分とその分身が、回りを回っているようでした。母は一晩中、自室で祈っていました。誰も近くに寄せ付けませんでした。父が助かったという知らせを受けた後、階下に下りてきました。私たちは、父が助かったことでも喜ぶことは出来ませんでした。メンデレス首相、ファティン氏やハサン氏たちも、私たちの最も近しい親友だったからです。」

ニルフェル・バヤル・ギュルソイさんは、5月27日を「この時代に起こった最初のクーデター」と考えている。その理由を以下のように説明する:「なぜなら、思想の衝突によって始まったからです。それは5月27日に突然あらわれたものではなく、1959年から表に出ていたのです。社会はクーデターへと向かわされ、(クーデターへの)条件が準備されました。まるでレース編みのように、一つ、またひとつと5月27日へ向かっっていったのです。」

■共和人民党が加担していなければ、5月27日クーデターは起きていなかった

ニルフェルさんは、5月27日にクーデターを起したのは軍人だけではないと考えている。共和人民党もクーデターの実行において役割を担っていたことを主張している。共和人民党は設立以来、「政府は我々のものだ」という思想によって支配されていたと指摘するニルフェルさんは、この精神が民主党の政権獲得を納得できなかったのだという。
 「共和人民党がこの事件に関与していなければ、5月27日のクーデターは起こらなかったでしょう」と述べるギュルソイさんは、その時代の党の官僚が、虚言を広める組織をつくっていたこと、これらの人々が民主党に関する疑惑を捏造し、軍部を政府に疑念をいだかせたと述べる。民主党が作られたときから、一党独裁の政権(=CHP)が、その創立者たちに尾行をつけたとし、民主党員ははじめから脅迫されていたと主張する。「彼らはレフィッキ・コラルタン氏の夫人に言ったのです、「あなた方はなんと向こう見ずなんだ、政党を設立するなんて」。その行き着くところは絞首台です。一番太い紐を、コラルタン氏のためにとっていました。」

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( 翻訳者:西山愛実 )
( 記事ID:16522 )