Murat Yetkinコラム: 「フェトフッラー・ギュレン運動」の新たな展開
2009年06月07日付 Radikal 紙
木曜日の夜に、トルコ語オリンピック・ソングコンテストの模様をサマンヨル・テレビで見た。その前の日には、(それに参加する)若者たちのグループが、ラディカル・アンカラ支局を訪問し、彼らはわれわれに歌や詩を読んでくれた。
世界のあらゆる場所で、子どもたちや若者たちがトルコ語を使って話しているということに、感銘を受けずにはいられない。
世界115カ国でトルコ語の教育がされているといわれている。トルコは98カ国に大使館を構えている。アフリカや南アメリカに新しく開設される大使館を含め、来年には110カ国に達する予定である。
これらの学校の背後には、フェトゥフッラー・ギュレンを指導者と考えるある集団がいることは、周知の事実である。モルジブの島々からモンゴル、コロンビアまで広がる教育者たちのネットワークを、アナトリアにおいて県単位で分割された、信仰を基礎に置いたコミュニティーを通じて支援し、その活動を実現させていることは、彼らのもつ組織化の経験と才能を示している。
ギュレン氏を指導者とするトルコ人学校に私が出会ったのは、スレイマン・デミレル前大統領の外国訪問に、記者として随行した時であった。デミレル前大統領は、いくつかの学校の開校式や始業式に出席した。
その頃、例えばルーマニアやアルバニア、トルコメニスタン、カザフスタンといった国々において、それらの学校は、近代的な英語教育をする唯一の学校だった。
このため学生の保護者との集まりでは、例えばその国におけるアメリカ合衆国大使館大使やロシア大使館大使、そしてその国の何人かの大臣たちとも会うことができた。大使館付きトルコ武官が子どもたちをその学校に通わせることや、学校経営者たちが国家安全保障評議会事務局から渡されたプラカードを、学校の玄関、つまりアタテュルク・コーナーに飾っていることを、他の記者の友人たちとともに少し驚きつつも目撃したのであった。
その時以来、そして今現在も理解できないいることは、トルコ国家が、どうして、このような目の前にある可能性を活用しないのか、ということだ。
たしかに、昨日6日にタイイプ・エルドアン首相は、教育相、保健相、文化相たちも従えて、このような学校でトルコ語を学ぶ子どもや若者たちが技能を披露するトルコ語オリンピックの表彰式に参加した。また、首相は6月2日にも同じ(ギュレン系)団体の労働分野の組織であるトルコ労働者実業家連合(TUSKON)が、これもまた115カ国から2千人に近い労働者たちをイスタンブルに集結させた『世界貿易の架け橋』集会に参加し、講演を行った。
しかしここで「トルコ国家」と言うのは、単に政府を指しているわけではない。
しかし、国家の司法や軍の側には、フェトゥフッラー・ギュレンや(彼ら自身がそう呼んでいる)「運動 (ハレケット)」に対して反感や先入観がある。
(司法や軍の)人々は、ギュレン氏が、何年も暮らすアメリカのオフィスで、トルコに宗教を基礎に置いた国家を作る準備をしている、このために組織化を行っている、という強い「認識」がある。政治において「認識」は事実よりもさらに重要となることがありえる。そのせいもあり、世俗主義を守ることに神経質な層の「認識」でも、ギュレンに対し同じような反応がみられる。
例を挙げるならば、イルケル・バシュブー参謀総長は、就任後に実施した新しいメディアの線引きにより、(参謀本部に入れるメディアを選別し)認定するという方策を拡大させた。例えば、政府に近いイェニ・シャファク紙やスター紙といった新聞や、関連テレビ局は、参謀本部の活動を取材できるようになった。しかし、「ギュレン運動」のメディアの主軸紙であるザマン紙や、オーナーが「ギュレン運動」と近いといわれるブギュン紙などの新聞は、認定されなかった。
また、バシュブー参謀総長が4月14日に士官学校で行った毎年恒例のトルコ軍総括会議では、「宗教的コミュニティーが政治的分野において役割を担うこと」に対し反感を示し、それが「ギュレン運動」をさしていると報道されたことには、とくに反論しなかった。
アンカラのある観測筋によると、ザマン紙が認定外とされたのは、軍のあり方やスカーフ問題など、世俗主義に関わる問題で行った報道の影響があるという。しかしそれ以上に、(ザマン紙が)密接な関係にある「ギュレン運動」に対する、軍の目からみた「認識」がその原因である。これは、軍組織の中に、ギュレン氏と関わる組織や集団の形成が進められている、という「認識」である。
子供の頃や青年期に(「ギュレン運動」のなかで)人間形成を行った人々が、警察や司法界に入ってのち、そのなかで一緒に行っている運動を、反対者が「フェトゥフッラー型(F型)組織」と批判の対象としているように、また、いわゆるエルゲネコン裁判の背後にもこれに似た組織化の存在が疑われているのと同様に、類似した状況が軍の中にもある、と「認識」されている。
軍によれば、これは(「ギュレン運動」の側が)実際よりも自分たちを強力に見せるために行っていることである、という。
バシュブー参謀総長が(4月)14日の発言の後に、トルコ語オリンピックとTUSKON集会といった二つの大きなイベントを目にしただけではない。同時に、めだたないが、次の二つの進展もあった。
4月28日にスター紙のファディメ・オズカン氏が、ザマン誌の重鎮コラミストであるヒュセイン・ギュゼルジェに行ったインタビューの中で、ギュゼルジェは、ギュレン氏の何年も前のある発言を話題にした。そして、スカーフを念頭におき、「イスラムの義務は5つですよね。(それともスカーフの着用を含めた)6つですか?」と問い、スカーフを被らない女性たちはムスリムでないとする説を支持する人に、打撃をあたえた。
ザマン紙の編集長であるエクレム・ドゥマンル氏は、6月1日に「もしイルケル・バシュブー参謀総長もそこにいたならば」という見出しの下、編集者たちの議論を報道した。これによると、ザマン紙の記者たちは、ザマン紙が入れてもらえなかった海軍の2009年度軍事演習の情報を、記事として載せることに反対したという。
ドゥマンル編集長がこの記事を書いている時、ザマン紙コラミストのギュレルジェ氏はアメリカのペンシルベニア州で暮らすギュレン氏のもとから帰路につくところであった。もどってくると、エルドアン首相のメディア―名前を言わずともドアングループに対する―(攻撃的な)態度をギュレン氏がいかに批判したか(をギュレルジェ氏が伝えている)という件について、昨日のコラムで紹介した。
昨日のザマン紙で、バシュブー参謀総長のアメリカ政府との交渉に関する記者会見の内容が一面の見出しになっているのを見ると、その理由が気になった。何が変わったのか?
中のページに答えを見つけた。ザマン紙のワシントン記者であるアリ・アスランが、特別に記者の証明書を持ってこの記者会見に招待されたらしい。
ザマン紙に対してトルコで適用される軍の「認定」はアメリカでは無効であったようだ。
軍のザマン紙に対する締め出しは、トルコにおいてもなくなるのだろうか?私は、他の新聞のようにザマン紙も報道の権利を十分に行使できるべきだと思う。そして、そうなってはじめて、新しい状況がなんであるのかを知ることができるだろう。
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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:16624 )