マルマライ地下鉄工事で、オスマン朝史跡出土―ルート変更やむなし?
2009年06月30日付 Hurriyet 紙
マルマライ地下鉄プロジェクトのルート上にあるために別の場所への移転が協議されている「離別の泉(アイルルック・チェシュメ)」、すなわち、オスマン朝スルタンたちが、戦争へと旅立つ際にここで軍隊と集合し、家族に別れを告げたとされる歴史的な「離別の泉」で行われた発掘において、今日まで土の下にあった歴史的な礼拝所も見つかった。もし史跡保護委員会が「その場に残すよう」と決定を下したなら、マルマライ地下鉄工事のルートが変更される可能性がある。
マルマライ地下鉄とカドゥキョイ・カルタル間の鉄道システムが合流するアイルルック・チェシュメ(離別の泉)駅における発掘で、今日まで土の下にあった歴史的な礼拝所が見つかった。カドゥキョイのイブラヒマー街区に位置し、またマルマライ地下鉄プロジェクトのルート上にある離別の泉の歴史的な価値を明らかにするために始められた発掘作業はまだ続けられている。
マルマライ地下鉄プロジェクトのルート上にあるために、発掘ののち、別の場所への移転が協議されている歴史的な泉の背後地に、今日まで土の下にあった歴史的な礼拝所が見つかった。この泉は、オスマン朝スルタンが軍隊と共に戦争へと旅立つ際に家族に別れを告げた場所として知られる。
■ 400年の歴史
『カドゥキョイ・ライフ』誌の報道によると、1600年にムラト4世によりつくられ、バグダッド出兵の1638年に「離別の泉」と名付けられた歴史的な泉と礼拝所をもとどおり修復するため、プロジェクトをはじめたと述べるカドゥキョイ市戦略委員長のシュレ・オヌルは、発掘の結果において明らかになった礼拝所が、泉がもともとこの場所にあったことを証明したと語り、また、泉を移動するかどうかについての決定はイスタンブル第5史跡保護委員会から下されるだろうと話した。委員会から、歴史的な泉と礼拝所を残すという決定が下された場合、プロジェクトのルート変更が問題となってくる。
(中略)
■ 「離別の泉」はムラト4世がつくった
「離別の泉」は1600年につくられた。ムラト4世のバグダッド出征以来、軍隊と家族との別れを告げた場所であったためにも、「離別の泉」として記憶されはじめた。オスマン朝スルタンは、トプカプ宮殿からウスキュダルへ行き、ウスキュダルからメンジルハーネ-カラジャアフメト墓地の方角を向いて「離別の泉」に向かい、この地のハイダルパシャ牧草地とイブラヒム・アー牧草地で訓練を行っていた軍隊をと合流し、家族との離別の後にアナトリアへと出征した。さらに、メッカ巡礼団もカーバへ行くために「離別の泉」の前に集まり、ここから旅立った。カーバへ毎年の贈り物を運ぶ軍団であったスレ・アライも、ウスキュダルでの儀式のルートをたどり、この泉に集い、巡礼団と共にカーバへと向かった。
■ カドゥキョイ市は、この地区の保護区指定を望んでいた
カドゥキョイの重要な史跡の一つであるイブラヒム・アー街区の「離別の泉」と、アイルルック・チェシュメ共同墓地、さらにアイルルック・チェシュメ通りを保護地区に宣言するよ、カドゥキョイ市評議会は、カドゥキョイ市局の仲介で2006年10月4日に第5文化・自然財産保護委員会に申請を行った。
■ マルマライ工事のルート上で・・・。
「離別の泉」は、マルマライ・プロジェクトの枠組みでは、乗り換え地点にあたる場所に位置している。ゲブゼ方面から来た乗客は、アイルルック・チェシュメ駅でカドゥキョイ―ウスキュダル行きか、あるいはウムラニエ行きにのりかえる。(ヨーロッパ側の)ハルカルとスィルケジの方面よりから来た乗客もまた、カドゥキョイやウムラニエへ乗り換える。または、ゲブゼ路線からアナトリアへと進むことになっていた。建設が続くカドゥキョイ-カルタル鉄道システムは、E-5国道の方からはいってきて、アイルルック・チェシュメ駅でマルマライ地下鉄と合流するはずであった。
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( 翻訳者:牧史織 )
( 記事ID:16839 )