アレヴィー派差別の象徴スィヴァス事件から16年、「現場を博物館に」の声
2009年07月02日付 Radikal 紙
1993年7月2日、スィヴァスのマドゥマクホテルが放火され、37人が殺された事件から16年が経ち、市では2つの別々の追悼プログラムが行なわれた。プログラムに参加し壇上にたった全ての人は、現場となったホテルを博物館にするように呼びかけた。
スィヴァス事件の16年目を記念して、様々な市民団体や、政治政党や協会がマドゥマクホテルの前で追悼プログラムを行なった。最初のプログラムはアレヴィー基金協会、ジェム基金、アタテュルク主義思想協会、共和国婦人協会、教育労働者連合、トルコ青年連合とトルコ労働者党によって行なわれた。まず、アタテュルクの記念碑に花輪をささげた約300人のグループは、その後、ホテルの前まで行進した。
ここでホテルにカーネーションを供えたグループを代表し、アレヴィー基金協会のドアン・ベルメッキ会長は、ホテルを博物館にすることについての演説を行なった。ベルメッキ氏は、「世俗的で近代的な共和国に対し行なわれた攻撃に対し、政府の沈黙を何とかしなくてはいけない。政府指導者たちはこの虐殺を防げなかった政府を代表し、この7月2日のの記念式典に参加し、全ての人の前でこの虐殺を非難しなくてはいけない。文化省は、アレヴィー派の実業家たちにお金を集めさせて、マドゥルマックホテルを買わせる代わりに政府を説得し、この場所が少しでも早く国有化されることを保障すべきだ」と話した。
■約10000人が参加した
スィヴァス事件16年目の第二の追悼プログラムはハジ・ベクタシュ文化基金、ヨーロッパ・アレヴィー連合協会、ピールスルタン・アブダル文化基金、公務員組合連盟(KESK)、トルコ革命労働組合連盟(DİSK)、共和人民党、労働党、トルコ共産党、民主市民党といった様々な労働組合や市民団体を含む、「7月2日組織委員会」によって実現された。プログラムには、トゥンジェリ選出の無所属の国会議員であるカメル・ゲンチ氏や、芸術家のフェラハット・トゥンチ氏、エムレ・サルトゥック氏、ムスタファ・オザルスラン氏も参加した。追悼プログラムのために駆けつけた約1万人はアリババ街区のアレヴィー派礼拝所(ジェム・エヴィ)の前で集まった。
メヴラーナ通りを進んだこのグループは、「スィヴァスの光は絶やさない」、「虐殺者には市民が報復する」というスローガンを叫びながら市の中心広場へ来た。共和人民党(CHP)は同時刻に500人のグループで政党の建物を出発し、町の中心にあるアタテュルク記念碑の前にきた。式典にはCHPのイスタンブル選出国会議員メフメト・セヴィゲン氏、スィヴァス選出の国会議員マリク・エジデル・オズデミル氏ら党関係者が参加した。CHP党員たちは記念碑に花輪を置くセレモニーのあと、メヴラナ通りを進んできた群衆に合流した。このグループは官庁広場や、アタテュルク通りを通り、旧ベレディエ通り上にあるマドゥマクホテルまで行進した。この際、ホテルの前では小さな衝突が起こった。ホテルの隣の建設中の建物に入り、建物に横断幕をたらした人々が、向かいの建物から文句をいった人に石を投げた。アナウンスで落ち着くように呼びかけれらた群衆に警察がしばらくの間、介入した。プログラムでは、スィヴァス事件で命を落とした人の名前を一人ずつ読み上げられ、群集は(名がよばれるたびに)「ここにいる burada」といって返事をしていた。
■ 同じ呼びかけを行なった
追悼プログラムにおいて「7月2日組織委員会」を代表して話したKESK支部プラットフォーム・スィヴァス代表ムスタファ・アクヨル氏は、マドゥマクホテルを博物館にするためにがんばるとのべ、「16年前の今日は深く記憶に刻まれた。16年前のことでありながら、ホテルはまだ燃えている。なぜなら責任があるものたちにまだ責任が課せられていないからだ。」と述べた。政府のこの面での活動とアレヴィー派への対応を批判するアクヨル氏は、16年前の理解がまだ続いていることを不快に思っていると述べた。スィヴァス事件の解明にむけて断固として戦うと話すアクヨル氏は、「私たちは16年前に殺された知識人のためにここにいるのです。ここでおきた全てのことに反対するため、もう二度とこのような事件を起こさないためにここにいるのです。平和と兄弟愛のためにここにいるのです。ホテルを博物館にかえるためにここにいるのです。この日にマドゥマクホテルの前で湧き上がる声は、兄弟愛の声です。」と話した。
プログラムでマドゥマクホテルは博物館になるべきだと話すピールスルタン・アブダル文化協会会長フェヴジ・ギュムシュ氏は、「16年前ピール・スルタン・アブダル関係の催し物のためにスィヴァスにきた35名の学者、芸術家、若者はここ、マドゥマクで殺された。それから16年が過ぎ、スィヴァスが依然、その中にいる暗雲をふりはらわれなくてはいけない。この野蛮な汚れは落とさなくてはいけない。この日私たちはここにいます。なぜなら1993年7月2日におきたことは忘れることができないからだ。この日私たちはここにいます。なぜならマドゥマクホテルをすぐに公共化し、博物館にすることを望んでいるからだ。もう嘘を言うのはやめて、マドゥマクホテルを博物館にしましょう。マドゥマクは必ず博物館になります。マドゥマク博物館になったなら、もう二度とあのような大虐殺は起こりえないでしょう。もしマドゥマク博物館にならなければ来年は10万人とともにここにいるでしょう」と述べた。
スィヴァス事件で命を失った人の家族を代表して話した故ムラト・ギュンドゥズ氏の父、メフメト・ギュンドゥズ氏は「1993年に政府の目の前でこの虐殺が行なわれました。この虐殺で37人の命が失われました。この悲しみの責任を問うためにここにいます。マドゥマクはまだ博物館にはなっていません。これは、わが国の恥です。命を失った人のためにもマドゥマクが博物館になることを望んでいます。」と話した。
ヨーロッパアレヴィー連合協会会長トゥルグト・オケル氏はというと、アレヴィーとして過去に起こった事件を忘れてしまっていたために7月2日のスィヴァス事件が起こったと話し、もう忘れることないと話した。16年前スィヴァスで政府が虐殺を行なったと表現するオケル氏は、「あの事件は政府が組織したものだ。私たちが属し、投票した政党は、私たちの望みをかなえなかった。今日も、写真をとるためだけにホテルの前にきて、すぐに帰った。この恥を忘れないためにマドゥマクホテルは必ず博物館にしなくてはいけない」と話した。
退職公務員協会会長サミ・エルデン氏は「1993年にマドゥマクにおいて出火した火は心の中で燃え続けている。暴動は大きい。あの日、スィヴァスの火という罠で失ったことを忘れはしない」という形で話した。アレヴィー・ベクタシ連盟会長アリ・バルクズ氏も16年前のつらい思い出は生き続け、いつでも心の中にこの辛さはなくならないと述べ、少しでもその痛みを鎮めるために、ホテルで命を落とした人の記憶のためホテルが公共化されるべきだと話した。バルクズ氏は、今日話した望みを追求しなければ、次第に忘れ去られていくということ、そのためにいつも声を高く保たなくてはならないと話した。
■広範囲な警備の配置
追悼プログラムの事前やその最中に、市の警察官たちは広範な治安措置をとった。群集が通るルートに捜索・チェックポイントが配置された。追悼プログラムのために市の中心、イノニュ通り、アタテュルク通り、旧ベレディエ通り、アフヨン通りとホテルに通じる通りが通行止めとなった。警察は、必要のない歩行者がこの地区に入ることを認めなかった。ホテルの前に行こうとする市民たちは、この間、チェックポイントでの手荷物検査のあと、地区内に入った。約1万人のグループの行進の最中、警察が警備にあたり、ロボコップの制服を着た警察が行進の間中、群集と一緒に歩いた。ホテルの付近では、高所に狙撃特別チームが配置される一方、カイセリ、トカト、マラトゥヤのような近郊の警察から人手を借りて警備に当たっていた。
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( 翻訳者:近岡由紀 )
( 記事ID:16853 )