ビレジキのボズユック郡近郊で27日の夕方に起きた列車事故で亡くなった5人のうち4人は28日、最後の旅路へと見送られた。アイシェ・イズリさん、メフメト・オズチュルクさん、デルビシュ・ハウズさん、トゥルガイ・ユルマズバシュさんとメティン・キュルシャト・イェシルタンさんらは後述するそれぞれ哀しい人間ドラマを残した。
■技師、友人の代わりに職務に就いていた
(工作機械に列車が衝突した)事故後、エスキシェヒル・オスマンガーズィー大学病院脳外科集中治療室にて、治療を受けている工作機械技師メフメト・サイト・ユルマズさんの容態が悪化したことが明らかとなった。ユルマズさんは、休みを取ったある友人の代わりに10日間、臨時に工作機械を操作していたという。治療の後、退院した作業技師のメフメト・チョラク氏、エロル・アルトゥンタシュ氏、道路建設の下請け会社で働くエンジニア1人と作業員2人が逮捕された。司法の手に委ねられた5人は、裁判所へ送致されず釈放された。
■父は後の車両にいた
メティン・キュルシャト・イェシルタンさん(14)は今年、アナトリア高等学校に合格していた。家庭の諸事情により、父と別々に暮らす母とアンカラで暮らしていた。
コジャリに暮らす祖父母を訪問する予定だった。トルコ共和国国営鉄道(TCDD)を退職した後、点検・修理の作業者として仕事を続けている父アフメト・トゥラン・イエシルタンンさんと一緒にエスキシェヒルから列車に乗った。
父は先頭車両に座ったが、息子の隣に座れなかったため、その後二番目の車両に移動した。事故で大きな被害にあった先頭車両にいたイェシルタンさんは命を失ったが、父は負傷しなかった。イェシルタンさんのために28日、コジャエリのデリンジェ郡で葬儀が営まれた。
母親のネティジェ・イェシルタンさんと二人の娘バヌとディデムさんは葬儀の間、精神的混乱をきたした。家族と近親者は涙を流し、イェシルタンさんの最後の旅路を見送った。祖父のラグップ・イェシルタンさんは、孫が自分を訪ねるために列車に乗ったといい、「事故をテレビで知った。少し経つと、近親者が、私の孫が負傷したと話した。死んだと聞いて、呆然自失となった」と語った。
キュルシャト・イェシルタンさんは葬儀の礼拝後、郡の墓地へ埋葬された。
■「列車は信頼できる」と言ったが
エスキシェヒル出身のメフメト・オズチュルクさん(53)は、シュメール銀行印刷工場の退職者であった。2人の子どもの父であるオズチュルクさんは、自分で所有する車でタクシーの運転手をしていた。
教師をつとめる娘の許にとどまる妻のヌレイ・オズチュルクさんを迎えるために、イスタンブルに向かう予定であった。タクシーのほかに、もう一台車を持っていた。しかし、この車はブルサに暮らす息子に与えていた。列車で旅立つことを知った友人らは、彼に車を貸せるとし、「車で行け」と話した。
しかし、オズチュルクさんは、「ボズユックーアダパザール間の幹線道路は工事中だ。事故となる可能性がある。列車で、楽々に行く」と話した。周囲の呼びかけにも関わらず、27日13時20分に、最後に残った列車のチケットの一枚を購入した。16時45分に運行しようとしていた列車にぎりぎり間に合った。先頭車両のシートナンバー3に座った。家族と友人らは少し後の死亡の知らせに激しく揺さぶられた。彼を見送るためにエルトゥールガジ・モスクで行われた葬儀に参列した友人らは、「列車を選んだことで、このような事故に遭った」と延べた。
メフメト・オズチュルクさんはイスタンブル市営アスリ墓地に埋葬された。
■弟への思慕が死へ導いた
デルビシュ・ハウズさん(24)はパムカッレ大学工学学科の最終学年であった。一歳の弟アタオル・ドルクさんに会いたいために、列車に乗った。
愛する者に巡りあわずにこの世に別れを告げたハウズさんのため、28日、イスタンブルのベイリックドゥズにあるハムザ・モスクで葬儀が営まれた。息子のために涙を流す(母)ネルミン・ハウズさんがかろうじて立つ一方、息子の学校の友人らと気を紛らわせる父テキン・ハウズさんは、「アッラーのご意志だ」と語った。
ハウズさんと同居する友人オカン・コチも、「イスタンブルへ行くときはいつもバスを選んでいた。列車はあまり使わなかった。同じ家で暮らしていた。冬には他の部屋の友人が寒がらないよう、自分の部屋の暖房を切るようないいやつだった。バーラマを弾いて民謡を歌うことが大変好きだった。昨年、生まれた弟を大変恋しいと話していた。このため、イスタンブルに行こうと列車に乗った」と話した。
彼は車の運転が大変好きだったと強調するコチさんは、「自分の車がなかったから、絶えず私の車を借りて運転していた。完璧なガラタサライのファンだった。彼は学校のサッカーチームでプレイしていた。彼を懐かしむだろう」と述べた。ハウズさんは、グルプナル墓地に埋葬された。
■9年間でひとつの家族がいなくなった
事故で亡くなったアイシェ・イズリさん(60)の夫イスメト・イズリさん(曹長)は、数年間ボズユックで軍務に就いていた。2000年に夫が、2004年には心臓発作によりただ一人の子どもジェンク・イズリさんも亡くなった。哀しい別離の後、イスタンブルに移り住んだ。事故の3日前ボズユックへ行き、昔の隣人を訪ねたイズリさんは、帰るために、先頭車両のチケットを購入した。事故現場で亡くなったイズリさんの葬儀は、兄弟が執り行った。姉は鉄道の旅を大変好きだったというビュレント・コヌクカルプさんは、「共に生きた隣人たちを決して忘れない。度々、彼らを訪問し、旅も常々列車でしていた」と話した。
■姉と行っていれば、死ななかったであろう
エスキシェイルのアナドル大学経済運営学部経営学科二年生のトゥルガイ・ユルマズバシュさん(21)の姉プナール・ユルマズバシュさんは、同じ大学の修士に関する申請をしていた。姉が手続き終了後にビレジキへ帰る一方で、ユルマズバシュさんはもう少しエスキシェヒルで学校の友人と一緒にいようとした。一日後、乗った列車で事故に遭遇し、命を失った。ユルマズバシュさんのために28日、オスマンガーズィ・モスクで営まれた葬儀へは、ビレジキ知事のムサ・チョラク氏、友人と近親者が参列した。近親者は、「もしかして、姉と一緒に戻ってきていれば、死んでいなかったろう」と述べた。
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( 翻訳者:岸田圭司 )
( 記事ID:17313 )