ゴラン高原撤退に合意した1998年文書の存在、ネタニヤフ首相は否定
2009年09月11日付 al-Hayat 紙
■ ネタニヤフ首相が1998年に原則としてゴラン高原撤退に合意していたことを明かす文書
2009年09月11日付アル=ハヤート紙(イギリス)HP1面
【ナザレ:アスアド・タルハミー】
イェディオット・アハロノート紙は昨日のトップの見出しで、「ベンヤミン・ネタニヤフ首相は1度目の任期(1996~1999年)の際、イスラエルがシリアとの平和条約の見返りとして、シリアのゴラン高原の占領地から1967年のラインまで撤退することに合意した」と明言する文書を明らかにした。同紙が公開した「ゴラン高原撤退文書」ないしイスラエル・シリア平和条約草案は、1999年に故ハーフィズ・アル=アサド・シリア大統領との交渉のために派遣された、ネタニヤフ首相の特使であるアメリカ人ビジネスマンのロナルド・ラウダー氏が、当時のビル・クリントン米大統領に渡したもので、ゴラン高原から完全に撤退することにネタニヤフ首相が合意するとの内容が含まれていた。
ネタニヤフ首相の官房がゴラン高原完全撤退に合意したことをあらためて否定する中、当時のイスラエル諜報特務局モサドのダニー・ヤトム長官は、「ネタニヤフ首相は、平和条約調印と関係正常化の見返りにゴラン高原からの完全撤退に合意したが、今日では考えを変えている」と述べた。
文書には、「イスラエルは、全ての国が認められた安全な国境を有する権利を謳った安保理決議242号と338号に従って、土地と平和の交換の原則に基づき、1967年に占領したシリア領から撤退する」と記載されており、「撤退は1967年6月4日のラインに基づいて合意された国境まで」、「撤退は3段階で行われ、第3段階で国交正常化の適用を開始するとの前提で1年半後に完了する。撤退の第1段階では、両国間の戦争状態の終結を宣言する」と続く。
文書の第5項では、イスラエルが手に入れる見返りについても触れられており、「地上警戒拠点の必要性が生じた際には、完全撤退後から10年間、シェイフ山に拠点を残すことができる。これはアメリカとフランスの警戒拠点とし、両国が全面的な責任を負うものとする」とされている。
一方、ネタニヤフ首相の官房は、1967年6月4日のラインまでイスラエルが撤退することに合意したことを否定するコメントを繰り返し、同時に「前提条件なしにシリアとの政治的交渉を行う用意がある」ことを強調した。同様にラウダー氏の事務所も、「イスラエルに代わって完全撤退を約束した」ことを否定し、「クリントン大統領への書簡では、シリアとイスラエルの和平について故シリア大統領と交換した意見について言及した」と述べた。
しかし近く刊行される著書の中でラウダー氏の書簡を公表したヤトム元モサド長官は昨日、イスラエルのラジオ局に対して、「イスラエルとシリアは8つの点に合意し、他のいくつかの点は協議の課題とされた」と述べ、「ラウダー氏とクリントン大統領の会談が行われ、その後でラウダー氏はクリントン大統領に書簡を送り、その中でハーフィズ・アル=アサド大統領との会談の結果を概説した。その中にはイスラエルがゴラン高原から1967年6月4日のラインまで撤退すること、3段階で行われる撤退は18ヶ月間を要し、第1段階で両国の戦争状態の終結宣言、第3段階で関係正常化を成立させるとの合意が含まれていた」と述べた。また、「ラウダー氏が虚偽の文書をでっち上げ、クリントン大統領に提出したとは想像できない。この文書はネタニヤフ首相の名で提出されたが、最近ではネタニヤフ氏はそれを否定しようとしている」と述べた。ヤトム氏は、「ネタニヤフ首相は今日では、10年前の約束を履行することを義務づけられてはいない。しかし私は、ネタニヤフ首相が前回の合意を認め、考えを変えたと発表することを期待していた」と指摘した。
ネタニヤフ氏は首相選出の前にゴラン高原の入植地を訪問し、「イスラエルはゴラン高原から撤退しない」と宣言した。そして同伴した息子に対して、子供たちと一緒に入植地の木陰で憩わせてやると約束した。同様に、ゴラン高原が戦略的に重要であり、シェイフ山がイスラエルの「国家の目」であることから、イスラエル国民のおよそ60パーセントは、和平合意の枠組みの中においてもゴラン高原から撤退することに反対している。
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( 翻訳者:青山沙枝 )
( 記事ID:17465 )