ビンギョルでのPKKメンバーの葬儀、PKKデモに化す
2009年10月30日付 Radikal 紙


ビンギョル近郊の山野で起きた武力衝突で殺された五人のPKKメンバーのうちの一人、ズィヤッディン・チャユル(22)が、故郷のムシュ県ブラヌク郡で埋葬された。

テロリスト、ズィヤッディン・チャウルの遺体は、昨日木曜(10月29日)の夜、ムシュ県ブラヌク郡にイェミシェム市当局の救急車で搬送され、これを約200人の人が迎えた。遺体は今日(30日)の昼過ぎ、ビンギョルデキ村へ搬送するためにまず、民主市民党(DTP)の郡支部の前に運ばれた。

その場に集まった群衆は、スローガンを叫びながら1kmの大通りでデモ行進を行った。全ての商店のシャッターが閉じられ、ここでの葬儀には約1000人が参列した。亡くなったテロリストの遺体はこの葬儀のあと、長い車列で、もともとはホシュゲルディ村にあったが、この村がアルプアルスランダム湖に沈んでしまったため、隣りのビンギョルデキ村に移された墓地に運ばれた。

クルド労働者党(PKK)メンバーの遺体を救急車から受けとり、肩に背負った者たちは「PKKは民衆だ。民衆はここにいる」「歯には歯を、血には血を。オジャランよ、我々はあなたとともにいる」「クルディスタンはファシストの墓場となる」「殺人者エルドアン」「内閣は辞職を」といった言葉とともにクルド語のスローガンを叫んだ。顔をマスクで覆った若者達は、PKKのシンボルである三色の布や、アブドゥッラー・オジャランの写真のあるポスターを掲げた。

遺体の埋葬後、墓地ではニメト・セズギンDTP県支部長が、殉職者の最後の旅を見送ったと述べた。そして、(国家)システムが200年にわたりクルド人に対し、殲滅と否定の政策を続けていると語り、次のように続けた。

「このため、クルド人は、200年にわたり平和のために反逆している。クルド人のこの叫びを、自由への渇望に耳を貸さないものは、クルド人の自由の炎のなかで焼かれるだろう。このために、我々はいつも町にくりだす。(先日の)スィロピからディヤルバクルまでの行進を、内務省は「示威行動だ」といっている。しかし、「ご破算にしよう」という考えこそが扇動的な理解だ。これは、民衆を見ようとしない理解だ。これこそが、武力行動を続けようとする理解だ。血と涙の上に政治をしようとするものは、戦争を望むものを利している。この意味で、クルドの民は、今日、答を出した。我々は、これからずっと、こうした若者の傍で、自由をもとめて、その傍にたつ。この道を進む。

誰も我々に止まれとはいえない、止まりもしない。我々が笑えば、笑うなといい、我々が泣くと、泣くなという。我々が平和を望めば、だめだという。なぜなら、彼らは自分たちを主人、我々を奴隷だとみなしているからだ。この理解はもはや過去のものだ、壊される運命だ。首相は、「創造主よりも、創造されたものを愛す」という。では、この民は、だれだ。この民を誰がつくった?これを直視せねばならない。イスラムの章句に帰らなくてはならない。皮膚の色をきめ、言葉を与えたのが創造主なら、すべての色に、全ての言語に自由をというならば、この民衆にも、その色を、その言葉を与えなくてはならないだろう。ためらう余地はない。今日、ブラヌク郡長は、「諸君、商店のシャッターを下ろすのは、一種の恐喝だ」という。しかし、ブナヌク郡の人々を、何ヶ月も脅してきたのは、郡長自身だ。郡長は、自身の態度を改めるべきだ。この町の人々の自由への渇望に手を伸ばさねばならない。はっきりいおう。我々にこの意味で敬意を払わないものは、我々に寛容の精神で接しないものは、いかなる意味のおいても、我々と合意にいたることはできない。妥協はしない。殉死者のご家族と、クルドの民に哀悼をささげます。」

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( 翻訳者:杉田直子 )
( 記事ID:17771 )