米大使館占拠記念日:政府系と非政府系で異なる報道
2009年11月05日付 Hayat-e Now 紙
緑のリストバンドを着け、ムーサヴィーの写真を掲げる人々
【内政部】アーバーン月13日〔11月4日=1979年に米大占拠事件の起きた日〕の「学生の日」の記念式典が昨日、例年とは異なる形で行われた。〔30年前の〕この日の思い出を顕彰するために集まった若者や小中校生、大学生をはじめとする国民各層は例年通り、独立と自由を希求する革命の基本理念を掲げ、正義を求め抑圧を非難するスローガンを叫んだ。イラン各地で開かれたこの式典では、しかし従来では見られなかった出来事も多く発生した。
昨日の午前10時、プラカードを手に持ち、様々なスローガンを叫びながら、テヘラン・ターレガーニー通り沿いにある旧アメリカ大使館跡地に続く道を行進したテヘラン市民は、式典終了後も数時間にわたり、各所の通りに居残り続けた。
このような中、今年の記念式典を取材するために、ひときわ多くの記者が内外から集まった。記者やレポーター、カメラマンらは、今回の式典の隅々を取材しようと力を入れたが、今年のアーバーン月13日の式典とそこで行われたデモ行進は、例年とは異なり、相対立する思想・多種多様な政治潮流が入り乱れて行われたため、メディア関係者が伝えたこの日の「現実」も、互いに異なるものとなった。実際、政府系公式メディアと非政府系メディアはそれぞれ、昨日起きた出来事を別々の形で伝えた。
国会〔少数派〕の「イマームの路線」派のニュースサイト「パーロルマーン・ニュース」は、アーバーン月13日の式典開始後すぐに、〔テヘランの〕「ハフテ・ティール」広場とその周辺にいた治安部隊と「緑の運動」支持者たち〔=ムーサヴィー派〕との間で、散発的な衝突が発生していることを報じた。
「パーロルマーン・ニュース」によると、ハフテ・ティール広場とその周辺の通りに集まってきた人々の数が刻一刻と増える中、同地にいた治安部隊は数回にわたり群衆に催涙弾や空砲を発砲した。集まってきた人々も口々に、「キャッルービー万歳、ムーサヴィー永遠なれ」を叫んでいた。
そのような中、一部の非政府系ニュースサイトは、テヘランの大学生らが旧米国大使館に向けて動き始めたことを伝えていた。それによると、テヘラン大学の一部の学生らは、同大学の門の前に来たシャリーフ工科大学の学生らと合流した後、大学構内から出て、シュプレヒコールを上げながら、ターレガーニー通りとモファッタフ通り〔の交差点=旧米国大使館のある場所〕に向けて出発した。その一方で、大勢の治安部隊が大学の出口門の一部の前に立ちはだかり、学生らが構内の外に出るのを阻止する場面も見られた。
また昨朝、数時間の間、地下鉄がハフテ・ティール駅やターレガーニー駅、及び「ダルヴァーゼイェ・ドウラト」駅での停車を見送るという事態も発生した。
テヘランのフェルドウスィー広場やヴァリー・アスル広場でも、不穏な動きが見られた。フェルドウスィー広場では、デモ行進者たちの列に加わろうとしていた一部の人々が拘束されるという出来事が起きた。同広場はその後しばらく閉鎖され、治安維持軍は催涙弾や警棒を使って、集まってきた群衆を解散させようとした。
ハフテ・ティール広場では、同広場周辺の路地に逃げ込んだ一部のデモ参加者が、暴力主義者たちによって激しく殴打されるという事件も起きた。また、特別なワゴン車で連行された人もいた。また、旧米大使館だけでなく、ロシア大使館に続く道も治安維持軍によって閉鎖された。
さらに、ホッジャトルエスラーム・ヴァルモスレミーンのメフディー・キャッルービー氏がハフテ・ティール広場に入る道で襲撃を受けたとの情報も伝えられた。メフディー・キャッルービー氏の息子であるホセイン・キャッルービー氏は、事情を次のように明かす。
モダッレス・ハイウェーからハフテ・ティール広場に向かっていた父は、アーバーン月13日のデモ行進に参加していた人々から歓迎を受け、また厳しい渋滞に巻き込まれたことから、ハフテ・ティール広場まで500メートルのところで下車した。
人々とともにハフテ・ティール広場に向かって歩いていたところ、広場から100メートルのところで、暴動鎮圧特別部隊が父の前に立ちはだかり、父は行く手を阻まれた。すると、部隊と人々の間で衝突が発生した。
このとき、父の方へめがけて、催涙弾が数発発射された。そのうちの一つが、父の警護をしていた人物の頭部を直撃し、頭に大けがを負った。この人物はその後、病院に搬送された。
催涙弾の影響で、群衆は散り散りになり、地面に倒れた人もいた。父も催涙ガスを吸い込んだために、倒れ込んでしまった。その後その場から救出され、車に戻った。
このとき、私服部隊が父の乗っていた車を襲撃し、車に大きな被害が出た。父とその随行者たちはルートを変えて、モタッハリー通りの方に行き、この通りにいた人々に合流した。人々は、父の状態を気にかけていた様子だった。
ホセイン・キャッルービー氏は父メフディー・キャッルービーに対して行われた過激な行動について、同氏にもしものことがあれば、その責任は〔治安〕関係者の責任だと指摘している。
また、昨日ヴァリー・アスル通りやベヘシュティー通り、キャリーム・ハーン・ザンド通り、モファッタフ通り、アーザーディー通りの一部、ターレガーニー通りとパレスチナ通りの交差点、そしてオスターデ・ネジャートッラーヒー通りとガーエムマガーム・ファラーハーニー通りの交差点など、テヘランの別の箇所でも市民と治安部隊の間で衝突が発生したとの報告もある。
シーラーズで行われたアーバーン月13日の記念式典でも、様々な事件が発生した。シーラーズでのデモ行進でも、治安部隊と市民の間で衝突が起きたのである。
報告では、次のようにある。
水曜日の午前11時、アーバーン月13日の記念式典が厳重な警戒の中、シャーチェラーグで終了を迎えた。しかしその後も、シーラーズのナマーズィー広場やアラム広場には、警察部隊や私服の姿が目立っていた。
一般市民はアラム広場に集まり、学生たちはパルディース広場で集会を続けていた。そこへ突然、マスクをした50人以上のバイク乗りが現れ、群衆への大規模な襲撃を始めた。アラム広場とパルディース広場の間の距離は短いため、両広場にいた人々はすぐに〔真ん中に〕追い込まれ、〔バイク乗りに〕囲まれてしまった。そこから逃げ出す者もいた。そこにいた人々の映像や写真を撮っていた「私服」の存在も、はっきりと認めることができた。
そのような中、手製のプラカードを持っていた大学生ら複数が速やかに逮捕された。こうした逮捕や人々の抵抗が引き金となって、〔治安部隊と人々の間で〕激しい衝突が発生した。
その一方で、〔政府系の〕ファールス通信は予想された通り、「《ウマイヤの緑》たちを除くすべての人が集結!」との出だしの報道を数本、配信した。
〔「ウマイヤ」とは初代イマーム・アリーに敵対し、カリフ位を世襲化させ、第三代イマーム・ホセインらを惨殺した、シーア派にとっては「悪の権化」である「ウマイヤ朝」のこと。「ウマイヤの緑」は、イスラームのシンボル・カラーである「緑」を掲げて運動を起こしているムーサヴィー支持者たちを、体制にたてつく「偽イスラーム教徒」として非難するために最近作られた造語。同時に、「ウマイヤの緑」の対義語として、「体制に従順な真のイスラーム教徒」という意味で、「アリーの緑」ということばも作られている〕
同通信社の報道によると、今年のアーバーン月13日のデモ行進は、ムーサヴィー支持者らの参加を呼びかける、破壊主義的なメディアによるプロパガンダにも拘わらず、《緑たち》による影響を全く受けることなく、平然と行われた(!)という。
ファールス通信は、「88年〔2009年〕アーバーン月13日のデモ行進は、例年と比べても、極めて盛大に行われた」と伝え、さらに次のように報じている。
しばらく前から(ちょうど「世界エルサレムの日」のデモ行進の後)、ラジオやテレビ、インターネットサイト、Facebookやトゥイッターといったソーシャル・ネットワーキングなど、外国のメディアは大統領選挙で惨敗を喫したムーサヴィーならびにキャッルービーの支持者に向けて、アーバーン月13日のデモ行進に参加するよう、大規模なプロパガンダを行っていた。しかし昨日デモ行進に現れたのは、《ウマイヤの緑》たちを除くすべての人々だった!
ファールス通信によると、ここ数日間のいわゆる《緑たち》によるプロパガンダは、デモ行進に参加し、そこで「ロシアに死を」「中国に死を」を叫び、イラン人民による「アメリカに死を」のスローガンを脇へと追いやることを目的に構成されたもので、BBCやVOAといったメディアによる積極的なフォローを受けていたという。
ムーサヴィー支持者たちにデモ参加を呼びかける西洋メディアのプロパガンダはここ数日、激しさを増していた。また「各大学の大学生は、学生諸君らに対しアーバーン月13日のデモ行進に参加するよう呼びかける」と題された、しかしその実、アーバーン月13日の存在意義をメチャクチャにし、米英イスラエル以外の国を敵視するスローガンを唱える目的で作成された、偽りのポスターがインターネットサイト上に繁茂していた。このような状況にもかかわらず、イスラーム体制とヴェラーヤテ・ファギーフ(法学者の監督論)を支持する《アリーの緑》たちが言うところの《ウマイヤの緑》たち、すなわちムーサヴィーを支持する《緑》たちは、デモに姿を現さなかった。
〔中略〕
ファールス通信はこう伝え、さらに次のように報じている。「ホルダード月22日〔6月12日〕の選挙後の混乱と、アメリカを無罪放免にしようとする一部の謀略にも拘わらず、デモ参加者による今年の《アメリカに死を》の叫びはこれまで以上に遠くまで響き渡り、その旨を伝えるプラカードも例年をはるかに超える大きさであった」。
ファールス通信によると、ハッダード=アーデル元国会議長の演説が終わり、11時半に式典は終了、デモ行進参加者らによってアメリカ国旗が燃やされ、《スパイの巣窟》〔=旧アメリカ大使館〕前、ならびにターレガーニー通りとその周辺に集まっていた人々はその場から立ち去った。また、現場から立ち去る前、デモ参加者らは「統一の殉教者」との称号で呼ばれている殉教者シューシュタリーとその仲間たち〔=10月18日にスィースターン・バルーチェスターン州で起きたテロで亡くなった革命防衛隊の幹部たちのこと〕に敬意を表して、「統一の祈り」を互いに口ずさんだという。
ファールス通信はこのように報じた後、すぐに次のような報道も配信している。それによると、過去に例のないほどの規模のテヘラン市民がアーバーン月13日のデモ行進に参加する一方、暴徒はテヘランの一部地域で集会を開き、アメリカ及びシオニスト体制の政策を支持するスローガンを叫び、一般市民や公共財産、ならびに治安部隊への襲撃を行ったという。
ファールス通信は、テヘラン市民が《アメリカに死を》、《イスラエルに死を》を叫びながら、アーバーン月13日のデモ行進に盛大に参加したことが、暴徒の怒りを招いたと指摘している。
この報道によると、暴徒は一部の政治集団や外国メディアの呼びかけで、50~100人規模でハフテ・ティール広場やシャヒード・モファッタフ通り、シャヒード・ベヘシュティー通り、キャリーム・ハーン橋、及び革命広場周辺に集まり、体制破壊を唱え、アメリカとイスラエルの利益を支持するようなスローガンを叫んでいた(!)という。
またファールス通信によると、治安部隊は暴徒を取り囲み、複数のごろつきを逮捕、ハフテ・ティール広場とそこに続く通りの「清掃」(!)を行ったとのことだ。また、ごろつきどもは銀行の支店数カ所を襲撃し、公共交通機関や個人の自家用車に損害を与えたという。
他方、イラン国営通信とイラン国営放送も、この式典の様子を別の角度から報じた。なかでも注意を引いたのは、政府支持派のゴラーム・アリー・ハッダード=アーデル議員による演説がイラン国営放送のニュース第一チャンネルで中継されていた際、抗議者による通常ではあり得ないようなシュプレヒコール〔=反アフマディーネジャード、ないしは反ロシア的なシュプレヒコールだと思われる〕が時折流れていたことである。
〔後略〕
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( 翻訳者:斉藤正道 )
( 記事ID:17813 )