「バルヨズ・クーデター計画」を暴露したタラフ紙は、(1980年の)9月12日クーデターに関する資料を報道し始めた。二つの計画の間にある類似点が注目される。
この資料は、「バルヨズ計画」を準備した人々が9月12日クーデターを参考としたことを示している。(その文書によれば)1980年に計画されたクーデタでは、まず7月11日の実施が予定されていた。しかし政府が国会で承認されたために、クーデターは延期される。計画の名前は「デヴ・クルト(=偉大な狼)」、つまり「デヴレティ・クルタルマ(=国家救済)計画」である。ケナン・エヴレンの親しい同僚だったベドゥレッティン・デミレルは、1988年にミッリエト紙のインタビューにおいて、軍内部における秘密グループがどうやってできたかをはっきりとした形で要約している。「国家救済計画は常に参謀本部で議論されてきました。9月12日クーデターのためにつくられた計画ではありません。国家が役目を果たさなかったために、9月12日にデヴ・クルトが現実のものとなったのです。」
タラフ紙にスーツケースによって届けられた「バルヨズ・クーデター計画」の資料の中には、非常に重要な別の資料も含まれていた。その資料は「1980年9月12日革命資料」と名付けられていた。こうして30年前に実行されたクーデターの極秘資料や指令などもタラフ社にもたらされた。同新聞社のユルドゥライ・オール編集長は、その資料から明らかとなった情報を連載記事とし、昨日(1月30日)に初回分を報じた。以下がその記事の一部である。そ
当時の有力将官であり、クーデターの指導者ケナン・エヴレン将軍の親しい同僚であるベドゥレッティン・デミレル氏は、1988年にミッリエト紙のインタビューで、1965年に軍内部で練られたこの計画にちて、その名称さえも話していた:デヴ・クルト。つまり『国家救済計画』である。そしてデミレル氏はこのように付け加えていた。『デヴ・クルトと略された国家救済(デブレティ・クルタルマ)計画は常に参謀本部で議論されていました。何年も前からあった話です。9月12日クーデターのために練られた計画ではありません。国家が役目を果たさなかったために、9月12日にデヴ・クルトが現実のものとなったのです。』」
ミッリエト紙で報じられた同じインタビューでデミレル氏は、後に9月12日クーデターと関連して非常に議論されることになる言葉もその時に発言していた。「9月12日クーデターのための条件が揃うのをわれわれは待ちました。」9月12日に「条件が揃い」現実 のものとなったデヴ・クルトの特別な名称があった:(それは)バイラク(国旗)である。
すべては、1978年3月7日にケナン・エヴレンが参謀総長の座に就いたことによって始まった。政治の不安定さや見境無い暴力事件などにより、若い将校たちは不快感を募らせ始めていた。(...) 1980年5月5日、デミレル首相との会見の後に参謀本部で戻ったエヴレン将軍は、クーデターの指示を行った。1980年6月16日に参謀本部において、エヴレン将軍は軍司令官らや戒厳令司令官たちと一堂に会した。会議の公式名称は「拡大戒厳令調整組織会議」であった。しかし3日間続いたこの会議のうち非公開で行われたセッションでは、「バイラク軍事行動計画」が議論された。クーデターの日程が明示された:1980年7月11日。すべての軍司令部と戒厳令司令本部に特別便で伝えられた「バイラク軍事行動指令」には以下のように書かれていた。「すべての軍司令部へ―バイラク計画の実行開始日は7月11日、時は午前4時」
■政府が信任されたことにより、クーデター計画は延期
しかし7月2日にデミレル政権が、軍の期待に反して、国会審議において信任に足る票数をえた。これはクーデター計画を頓挫させた。新たに信任を得た政府の転覆を望まない軍部は、クーデターの日程を延期した。その後、8月26日には、参謀本部においてクーデターのためのすべての用意が整えられた。しかしクーデターの日程は未だ明確ではなかった。8月の28日から31日の間に、「1980年9月5日以後、いついかなる時でも用意しておくように」と伝えた「バイラク軍事行動指令」は、極秘命令としてすべての司令部に伝えられた。この日程は特別に選び出されていた。バイラク指令の極秘命令のひとつは、第一軍と戒厳令総司令官であったネジュデト・ウルー将軍のオフィスがあるイスタンブルのセリミイェ兵舎に届けられた。その第一軍はクーデターのためにすでに全ての準備と身柄を拘束する人物のリストを準備していた。
この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る
( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:18379 )