数も数えられないのか!―エラズー地震の死者数51から41に修正
2010年03月10日付 Radikal 紙

コヴァンジュァルのセルチュク・アスラン郡長は、地震による死者数が41人に確定されたと述べた。この数字は以前51人と発表されていた。

アスラン郡長は、「死者数における混乱は、死者の身分証と戸籍上の名前に違いがあり、村の人々の間で呼ばれていた通り名とも違ったためです。しかし調査が行われ、最終的に1人の死者が2度数えられていたことがわかりました。死者数が10人減ったことは数の上では少ないにしても私たちを喜ばせました。この件に関する詳細の発表は県庁が行います」とした。

■ウシュクアラ教授は地震のあった地域へ

赤新月社代表顧問でありカンディルリ天文研究所の元所長のアフメト・メテ・ウシュカラ教授は、地震が起きた地域での調査にあたった。トルコは地震大国であること、どの地域でも地震が起こる可能性があると明らかにし、「誰もホームレスにはなりません。ここに来るときに地震の恐怖により(家があるにも関わらず)張られたテントを見ました。家はとても丈夫でしたが人々は恐怖からテントに住んでいました。しっかりした基盤がないのです。大切なのはしっかりした建物を造ることです。もし地震が原因で住む場所が変えられたとしても反論しないでください。この地域にはとても丈夫な建物もあるのです。丈夫な日干しレンガの家もいくつかあります。良い材料を使って造られた(赤新月社が計画し建設を進める)メヴラーナの家に関する調査も行われています。赤新月社はこの分野で調査を行っているのです。ビンギョルのイェディス郡にある断層はいつでも大地震の原因となりえます。震度7以上の地震の原因となりえるのです」と述べた。

ウシュクアラ教授は、エラズーのコヴァンジュラル郡オクチュラル村と地震で大きな被害を受けた村の人々の移動に関し国は対処していると明らかにし、村の人々にこの活動を妨害しないよう警告した。

■移住が始まった

この間、オクチュラル村と地震により被害を受けた周辺の村の家族たちは倒壊した家から荷物を持ち出し、トラックで安全な地域にある居住区域に引っ越し始めた。

■忘れられた村の人々が反発している

地震が起きた村のひとつであり日干しレンガの家々が大きな被害を受けた45戸の家があるエラズーのパル郡キョクルジェ村にある被災者は、援助がないことに苦情を述べている。村の人々は、地震から2日が経過したにも関わらず、隣にあるコヴァンジュラルの村々には様々な救援がなされたが自分たちのところには関係者が一人も来なかったと述べ、ただ兵が来てテントを張り食料を配給しただけだと説明した。テントが不足していると述べた村の人々は、1つのテントに2 家族住めるよう努力していると話した。

■子どもを病院へ連れて行った

キョクルジェ村で家が倒壊し、荷物を持ち出そうとしている32歳のライフ・バイラクは、地震のあった日9ヶ月の息子が病気になったため妻のギュルシェンと共にエラズーの病院へ連れていったと述べた。

地震の夜エラズーにある病院にいたと述べたライフ・バイラクは、「私たちがあの夜家にいたなら、間違いなく死んでいました。死ななかったのはアッラーのおかげです。息子がいた部屋の揺りかごは瓦礫の下に埋もれ、もしその中に息子がいたなら死んでいたでしょう」と話した。

■お母さん、僕たちの家はどうしてこうなったの

キョクルジェ村で被害を受けた日干しレンガの家々から、妻スリイェ、6歳の子どもディデムと5歳のムハンメトとともに生き残ることができた29歳のブルハン・ウールも幸運であったと話した。5歳のムハンメトの「お母さん、僕たちの家はどうしてこうなったの?」という質問に対し、息子に地震があったと説明しようとしている27歳のスリイェ・ウールは「地震が起きたときとても驚きました。すぐに外に逃げました。その後子どもたちが中にいたのでもう一度中に入り夫とここを掘りながら子どもたちを中から出しました。2人の子どもは死にそうで、土の中から掘り出しました」と述べた。

ウールは地震の後困難な状況にあることを説明し、「地震は私たちを殺さなかったが、援助がなくてはそうなります」と述べた。

■おもちゃを見つけると喜んだ

6歳のディデム・ウールは瓦礫の中からおもちゃがいっぱい入った袋を見つけると、「やったー、おもちゃを見つけた」と言って喜んだ。

キョクルジェ村で援助がなく苦しんでいる19歳のアイジャン・ケスキンは3ヶ月の子どもと困難な状況に立たされていると話した。ケスキンは、「赤ん坊のおむつが瓦礫の下にあります。赤ん坊につけてあげるおむつさえないのです。この冬に私たちには住む家がありません。援助を望んでいます」と述べた。

村の人々のひとりであるネスリハン・ボレルはというと、援助がなく苦しみ、スポンジベッドが一つと毛布が配布されたと説明し、「私たちは10人です。10 人が一つのベッドにどうやって寝ればいいのですか。初日に食料を持ってきてくれましたが、それも2日で終わりました」と述べた。

瓦礫の下で負傷し救助され病院で治療を受けた後村へ戻った23歳のハニフィ・オズトゥルクは、奇跡的に救われたと述べた。オズトゥルクは、「家の天井が全部私の上に崩れ落ちました。村の人々は私を負傷した状態で中から出してくれました。崩れ落ちた瓦礫の下にいるとき遮断され、息ができませんでした」と述べた。

一方でキョクルジェ村で地震による瓦礫で塞がれた道を開こうと救助隊が活動している。

■軍隊からあたたかい食事

エラズー第8軍部隊は地震で最も大きな被害を受けたオクチュラル村、ユカル・デイルメンジ、ユカル・カトランル、カヤァル村に行き準備した移動式キッチンでは1日に1600人へ3食配給している。軍が配給した食事をテントの前で食べる市民は「軍がいなかったら地震の影響をこれほどまでに早く忘れることはなかったでしょう」と言った。

■死んだ家畜は埋められた

エラズー県農業チームは、今回の地震で行われた最初の調査によると228頭の牛と2650頭の羊とヤギが死んだと明らかにした。農業チームは死んだ家畜は瓦礫の中から出され村の外でブルドーザーで掘られた穴にまとめて埋めた。穴に埋められた家畜の上に石灰が撒かれた後土がかぶせられた。

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( 翻訳者:釘田遼香 )
( 記事ID:18662 )