トルコの歴史家、アルメニア虐殺に反証
2010年03月14日付 Yeni Safak 紙
歴史家のジェズミ・ユルトゥセヴェル氏は、アルメニア公文書館から入手した一枚の写真が、1915年にアダナからアレッポへ移住してきたアルメニア人たちが音楽隊を伴う歓迎を受けたことを示していると発言した。同氏は、この写真をアルメニア人虐殺の主張に「イエス」と言う人々が見たならばきっと恥じ入るだろうと述べた。
ユルトゥセヴェル氏は以下のように発言した。「アダナを離れアレッポに移住してきた人々は、まず音楽隊によって歓迎されます。その後すでに用意されていたテントに移る人々もいれば、オスマン軍の兵舎関係の建物に落ち着く人々もいました」
1915年の事件に関連するいわゆる「アルメニア人虐殺」の主張は、アメリカ下院外交委員会に続いてスウェーデン議会も承認した。歴史家のジェズミ・ユルトゥセヴェル氏は、1906年にカイロで設立され、創立者兼会長をアルメニア人の血を引くエジプト人であり、外交官で銀行家であったボゴス・ヌバル・パシャが務めた、「AGBU」という略称の支援組織の文書館に保管されていた多くの写真が一部の研究者たちに公開されたと述べた。
ニューヨークに本部があり、ディアスポラのアルメニア人たちの間で支援活動を統括するAGBUが、2008年に研究者たちに情報提供した多くの歴史的な写真では、1915年にアナトリアからシリアへやってきたアルメニア人たちが移住したキャンプや、(彼らが受けた)社会経済的な(支援)活動が(研究者たちの)視界の前に広がったと同氏は述べた。
(また)同氏は以下のように述べた。「1915年にアダナからアレッポへ移住したアルメニア人たちが、楽隊を伴う歓迎を受けたことを示す写真は歴史的な事実を反映しています。アダナを離れアレッポにやってきた人々はまず楽隊によって歓待されます。その後すでに用意されていたテントに移る人々もいればオスマン軍の兵舎関係の建物に落ち着く人々もいました。アルメニアのAGBUに付属する歴史文書館から出た多くの写真さえも、全体として1915年にオスマン政府がアナトリアのアルメニア人たちに行った強制移住や、追放政策という名で知られる政策が虐殺ではなかったことを示しています。」
■ 在シリアアメリカ領事も追放が虐殺ではなかったことを明らかにしている
アレッポとユーフラテス川沿岸にあるアルメニア人移住者用のキャンプを訪れたアレッポ駐在のジャクソン米領事が、1916年2月8日にモーゲンソー在イスタンブル大使に宛てて送り、公式文書としてアメリカの国立公文館の中に納められている報告書によると、アレッポやダマスカス、そしてユーフラテス川沿岸に至ったアルメニア人移住者の数は486,000人に達したことを明らかにしている。
ユルトゥセヴェル氏は、この報告書が50万人の移住アルメニア人たちがシリアへ移ったことや、テントや新設の建物に移住したことを示していると強調し、以下のように述べた。「まずアルメニア人ディアスポラの最も強大な支援組織であり、その活動をアメリカのニューヨークで続けているAGBUが所蔵する、1915年に関するアナトリアからシリアに移住し、キャンプに移り住んだアルメニア人たちに関係する写真のコピーは、www.cezmiyurtsever.comにて公開し学術界に提供しています。」
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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:18693 )