トルコでも、4.24アルメニア追悼
2010年04月24日付 Radikal 紙

今年の4月24日はトルコにとって、世界からどんな反発が来るかという予想だけでは終わらなかった。イスタンブルで1915年にアルメニア人に向けて行われた強制移住と暴力に対する抗議行動が行われた。

グループはタクスィム広場に作られた「代理の記念碑」にカーネーションを投げてその場所でろうそくを灯し、拍手をしてさまざまなスローガンを叫んだ。グループを代表して会見を行ったゼイネプ・タンバイ氏は、1915年にトルコの人口がまだ1300万人だったときにこの土地で150万から200万人のアルメニア人が暮らしていたと説明し、「アルメニア人市民は街区のバッカル、仕立屋、宝石商、大工、靴職人、同級生、教師、国会議員、士官、友人であった」と述べた。

タンバイ氏はアルメニア人市民が自分たちの隣人であり苦難をともにした仲間同士であると述べ、「彼らは1915年4月24日に移住させられ始めた。我々は彼らを失った。今やもう彼らはいないのである。彼らの大部分は私たちの間にいない。『大きな悲劇』が私たちの良心に背負わせた大きな痛みはすべての重さとともに存在しており、95年間増し続けている」と話した。

グループのメンバーたちは、説明のあと拍手とスローガンとともにガラタサライ広場まで歩いた。説明と行進の際幾人かの反対グループが路地からやって来てトルコとアゼルバイジャンの旗を広げ、集まった人々に対して言葉による妨害を行ったが、警察の警告をうけ解散した。追悼には、アフメト・インセル、アリ・バイラムオール、アスル・エルドアン、アヴィ・ハリグア、アイハン・ベルギン、アイラ・ユルドゥルム、アイシェ・バトゥムル、バスクン・オラン、ジャフェル・ソルグン、ジェンギズ・アクタシュ、デニズ・ザラコル、ディレキ・ギョクチン、ドアン・タルカン、エレン・ケスキン、エロル・キョルオール、フェルハト・ケンテル、ファトヒエ・チェティン、ガロ・パイラン、ハリル・ベルクタイ、ハイコ・バーダト、ヒュッリイェト・シェネル、ラレ・マンスル、マヒル・ギュンシュライ、ネシェ・ドゥゼル、ペリハン・マーデン、ロニ・マルグリエス、セムラ・ソメルサン、ウフク・ウラス、ヤルチュン・エルギュンドアン、ヤマン・ユルドゥズ、ヤセミン・チョンガル、ユルドゥズ・オネン、ゼイネプ・ガムベッティらも参加した。

■写真を手に活動
正午ごろガラタサライ高校の前に集まった「人権協会イスタンブル支部拘束中失踪者対策委員会」のメンバーの一団は、1915年4月24日に逮捕されたあと消息を絶ったとされる「139人のアルメニア人知識人」の写真を手に座り込みを行った。
グループを代表して行われた会見で、彼らに「何が起こったのか」が説明されることが求められた。会見では当時約220人のアルメニア人知識人が家や職場から逮捕されたことが主張され、次のように述べられた。「何人かは刑務所に連れていかれ、その後ハイダルパシャ駅で列車に乗せられて国内の他地域に送られた。そのうち81人が死亡し、139人についてはその後消息を絶った。公正の獲得のため行方不明になった人の近親者たちの声に耳を傾けなさい。歴史と向き合いなさい。行方不明者の近親者に謝罪しなさい。共同墓地を保護しなさい。事実の調査、解明をおこないなさい。1915年4月24日から95年目の年に行方不明者の近親者と人権の庇護者として、社会の記憶を薄れさせる政策と歴史的事実を曲げた人々に屈せず、私たちは彼らを忘れなかったし、これからも忘れさせないだろう。」グループは、会見の後解散した。

■ハイダルパシャで「1915年」を巡る緊張…
人権協会(İHD)イスタンブル支部のメンバーからなる一団は13時30分頃ハイダルパシャ駅の入り口に集まった。1915年4月24日にイスタンブルでアルメニア人社会の主導的な人々が強制移住させられたと述べるグループは記者会見を行い、「この事件の名前が人権の擁護者とされることを望んでいる」と述べた。グループはその後海にカーネーションを投げた。
グループが解散する際に、駅の周辺の何人かの市民が反発を示した。反対した市民たちは、「まずアルメニア人がおこなった虐殺を学びなさい。ここは謝罪をする場所ではない」と怒鳴った。警察が間に入り市民たちを駅の周辺から遠ざけた。
短時間の緊張の後İHDのメンバーは船で駅の前から立ち去った。

■さまざまなパフォーマンス
この間、İHDのメンバーが活動するということを知った15人のグループが駅の中に集まった。退役将校エディプ・バシェル氏を含むグループの数人がトルコ国旗を持っているのが見られた。バシェル氏は説明を行い、「ここに集まった大使たちへの支持のため私はここにいる」と述べた。グループはアルメニア人によって殺されたとするトルコ人たちの写真を持参した。グループのメンバーと反対グループの一部の間で一時議論が起こった。グループのメンバーはその後平穏に解散した。

■アゴス紙の前で1915年抗議活動…
非抑圧者社会主義党 (ESP)メンバーの一団は12時30分頃アゴス新聞社の前に集まった。エルスィン・セダフオール氏が「アルメニア人虐殺」に抗議するグループを代表して記者会見を行った。セダフオール氏は、「1915年4月24日は、アルメニア人の人々が大きな痛みを被った時期の象徴的な日である。それから95年が過ぎたにも関わらず忘れられてはいない。100万人を超えるアルメニア人の追放と約80万人の人の死をもたらした強制移住政策は政府によってシステマティックに実行された」と述べた。グループは記者会見の後アゴス新聞社の入り口にカーネーションを置いて平穏に解散した。

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:18963 )