ビルゲ村の一年後
2010年05月02日付 Radikal 紙


政治家から芸術家、スポーツ選手から市民団体組織代表に至るまで、あらゆる分野から何千もの人々が村を訪れて事件の大きな痛みを共有し、事件の犠牲者たちを慰めた。

マルディン県のマズダウ郡に属するビルゲ村にて起きた、7人の子どもを含む計44人が犠牲となった虐殺事件が1周忌を迎えた。
マルディンから約25キロメートル離れたところにあり、その風景の美しさから地域内のその他の村々とは異なるビルゲ村は、一年前の5月4日の夜にセヴギ・チェレビさんとハビプ・アルさんの結婚式のために人々が集まっていたハジュ・ハリム・チェレビ村長の家がライフル銃で襲撃された結果、ほぼ血の海と化した。
この襲撃事件では、7人の子どもや、ハジュ・ハリム・チェレビ村長とイマームのハジュ・カズム・オザンさんを含む44人が死亡した。
この野蛮な事件は、一瞬にしてトルコ国内だけでなく世界的な報道の話題となった。

犯行の理由は未だ明確になっておらず、7人の子どもを含む44人を死に追いやり、そしてトルコにおいて皆が大きな悲しみに暮れては日々それを話題としたビルゲ村における虐殺事件から1年が経過したにも関わらず、(未だにこの事件は)襲撃に関連して報道されたあらゆる映像や写真を見た人々の心を焦がし続けている。虐殺事件は、その事件から救出された人々にも癒されることのない深い傷跡を残したままである一方、事件によって両親を失った61人の子どもたちは、小さな心で新しい環境に順応しようとしている。事件により父親や母親を失った子どもたちは、1周忌を迎えたことや村を訪れた人々を驚きをもって眺めては身に降り掛かった出来事を受け止めようとする一方で、追悼客たちがプレゼントしてくれたおもちゃで遊ぶことにより、短時間ではあれ自分が置かれた境遇から自分を切り離し、子どもらしい幸福な世界を生きている。

この一年間、政治家から芸術家、スポーツ選手から市民団体代表に至るまでさまざまな分野から何千もの人々が村を訪れては大きな痛みを共有し、事件の犠牲者たちの魂を慰めた。アブドゥッラー・ギュル大統領夫人であるハイリュニッサー・ギュル夫人や、セルマ・アリエ・カヴァフ国務相、ベシル・アタライ内務相、サードゥッラー・エルギン法務相、メフディ・エケル農業村務相、ギュルベン・エルゲン氏、メルテル・ジュムブル氏そしてハーカン・シュキュル氏などを含む人々は、さまざまな活動によって子どもたちが事件の悲しみから僅かであれ遠ざかることができるようにした。国家は、すべての組織を挙げてビルゲ村の住民たちの必要性を満たすように努め、また事件の直後に県が村に設置した食堂では温かい食べ物が供給され、特に子どもや女性たちに対してはさまざまな組織によってリハビリテーションの支援が行われた。

子どもたちがよりしっかりとした、そして村により近い場所にて教育を受け続けるために、4ヶ月で完成したビルゲ村初等学校が、ニメト・チュブクチュ国民教育相によって開校された。子どもたちは新しい学校にて教師たちとともに経験したトラウマを乗り越えようとし、村を訪れる人々が彼らに示す大きな関心にとても喜んでいる。

一方、スレイマン・ボリュンメズ前マルディン県選出議員は、虐殺事件によって命を失った人々が埋葬された村の墓地を新たに整備し、この地域特有のマルディン石にて作らせた。墓石には命日に代えて「別れの日」という言葉が記されている。

県が村の住民たちに温かい食べ物の供給を続ける一方で、保安隊が事件後に設置した暫定駐屯所においても警戒態勢が続いている。(村を)訪れる人々は軍警察の監督の下で入村している。

■イマームのハジュ・カズム・オザンを忘れはしない

ハジュ・カズム・オザンは、その理想のために生まれ故郷から遠く離れた村へ、人々の間における親愛の情や寛容の心を広めるために赴き、残酷な襲撃事件では職務中に「殉死」した。彼は結婚式のために招待され、そして人々に礼拝の先導を行っていた際に残忍な襲撃の標的となったのだ。彼は心の中の大きな愛情を村のすべての人に注ぐことに成功し、地域の人々の最も美しい記憶の中に居場所を得た。オザン・イマームは村の住民たちと信頼関係を築き、生前は子どもたちにコーランの詠唱を教えるかたわらで、大学試験に備える若者たちには毎晩自宅にて数学や物理学、化学といった授業を行っては大学に進学する若者たちのために尽力していた。以前は村外へ全く出ることのなかった村の少女たちを始めとして、すべての子どもたちを地域の歴史的な遺跡に連れて行き、彼らの視野を広げては、他とは異なるイマームの人物像を描いたオザン・イマームを、ビルゲ村の住民たちは忘れはしなかった。オザン・イマームは故郷であるアンカラ県のベイパザル郡にて埋葬されたが、ビルゲ村の住民たちはカズム・オザン・イマームのために村に記念の墓を建てた。村の住民たちは、襲撃事件によって命を失ったオザン・イマームを忘れはせず、彼を親愛の情をもって覚えていると話した。

■襲撃者たちの近親者たちも見捨てられはしなかった

襲撃を行った人々の近親者である58人の子どもと18人の女性を含む計84人は、事件後に警察によってとられた措置により村からつれ出され、最初にマズダウ・リン酸施設へ、その後マルディン県から約2千キロメートル離れたクルクラレリ県に買い与えられた32世帯の住宅に移住した。これらの家族の学校に通う世代の子どもたちは、クルクラレリ県内の学校に籍を移すことで教育を受けることのできない状態にされることはなかった。クルクラレリ県の国民教育局によって、大人たちのためには最低限の読み書きと裁縫の講習が開かれた。これらに加え、マルディン県から来た家族がクルクラレリ県にて孤独を感じることのないように、県を始めとしたすべての組織によって84人に対してあらゆる支援が行われた。

襲撃事件後に被告人たちに関する起訴状を作成したマルディン県第2重罪裁判所は、安全上の理由から裁判を他県にて行うために、法務省の仲介によって最高裁判所に要請した。要請が受理された後、安全上の理由からチョルム県重罪裁判所にて裁判が行うことが決定され、第1回目の公判は2009年9月2日に行われた。

8回の公判の後2010年4月26日に裁判は結審し、拘束中の8人を含む13人の被告人たちに関して開かれた裁判では、6人に44回分罪の加重された終身刑、未成年者である1人の被告人には44回分の懲役15年、自宅にて武器が発見された1人の被告人には懲役15年、そして空に向かって発砲したという容疑により拘束されることなく被告とされた者には6ヶ月間の実刑判決が言い渡された。拘束されることなく裁判を受けた4人は無罪とされた。

■われわれが経験したことは自然の災害であった

ビルゲ村のアブドゥッラフマーン・チェレビ村長はアナトリア通信の記者に対して行った会見において、襲撃者たちに科された罰が僅かであれ自身を喜ばせたと述べた。
事件から経過した1年の期間に、村を訪れ痛みを共有したすべての人々に感謝したチェレビ村長は、住民たちの経験した痛みが忘れられることは不可能であると述べた。

昨年からずっと県によって温かい食べ物が配給されていることや、(事件により)両親を失った子どもたちのためにこの取り組みがさらに1年続行されることを望んでいることを述べた同氏は、以下のように続けた。

「これからはもはや自立する必要があります。この痛みはわれわれの中から消えることはなく、生き続ける限りこの痛みを抱えることになるでしょう。しかし、僅かであれ襲撃者たちに科された罰によって心が楽になりました。法が正しい行われることはわれわれにとって非常に重要なことでした。トルコのすべての人々がわれわれとともに泣いてくれたのですから、われわれもこの決定を尊重しなければなりません。トルコのすべての人々に感謝しています。世界で最悪とされる事件を経験しました。これは運命だと言えましょう、われわれが経験したことは自然の災害であったのです。身に降り掛かった5月4日の災害は、われわれを打ちのめしました。自分の(生まれ育った)村にて外の世界とは無関係に生きていたのに、このような災害を経験したのです。このことに対し敵意というのは間違いでしょう。われわれにもたらされた励ましの支援がわれわれを支えてくれました。ディヤルバクル県内の私立学校の体育教師は村に3ヶ月間滞在し、子どもたちにスポーツを教えてくれました。われわれすべての生活が変わりました。私ですらこの歳で、人生経験があるにも関わらずもはや生きることを望んでいなかったのです。しかしヌーリ・バトゥル先生は子どもたちを包み込み、彼らの世界を変えたのです。」

「新しいプロジェクトを始めました。孤児たちに家を建ててあげます。このキャンペーンはまだ始まったばかりであるにも関わらず、現時点から多くの善意あるビジネスマンが支援すると仰ってくれました。村には子どもたちのためにそれぞれ自分用の部屋やお風呂のある形で家を建築します。私も村長としてまずトラック1台分のレンガを購入しました。村には16世帯に121人が暮らしており、この内61人を孤児たちが占めています。われわれの目的は子どもたちをそれぞれが教育を受けた良い市民として育てることです。事件から今にいたるまで、ハサン・ドゥルエル県知事は子どもたちを始めとして村のすべての者たちの世話をしてくれています。子どもたちに関する問題とも積極的に関わっています」

チェレビ村長は44人が死亡する原因となった虐殺の理由が明らかになっていないことを残念に思っていると述べ、以下のように話した。

「(事件から)1年が経過しました。事件を起こした者たちの裁判も終わりました。しかし裁判の過程においても事件の当初にも、虐殺の理由は明らかになりませんでした。けれどもわれわれは希望を抱いています。理由はきっと明らかになると信じています。虐殺の理由は未だわかっていません。この背後には「(政府の)クルド問題解決策」に反対する人々がいるのだと考えています。なぜならこの襲撃事件がおきたのは、ちょうど、政府が「(政府の)クルド問題解決策」をはじめたときにあたっています。みなを殺害して、事件はPKKが行ったことであると述べようとしたのでしょうが、これは失敗しました。このため「クルド問題解決策」に反対してい人々がこの事件をおこした可能性があると考えています」

チェレビ村長は、虐殺事件の1周忌のために5月4日に村の墓地近くにてメヴリトが詠まれるとし、以下のように述べた。「マズダウ宗務局の貢献により、郡に属する50を超える村のイマームたちの参加によって犠牲者たちのためにメヴリトが詠まれます。メヴリト(の詠唱)には、イマームだったハジュ・カズム・オザンの家族や(元サッカー選手の)ハカン・シュキュルさんを含むとても多くの人々が参加する予定です。」

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:19018 )