支援船での死亡者の葬儀、抗議集会の様相
2010年06月03日付 Milliyet 紙


ガザ支援船での死亡者の葬儀がファーティフ・モスクで執り行われた。遺体は葬儀の後、埋葬のため家族の手に渡った。イスタンブル以外に埋葬される遺体は、それぞれの故郷へと移送される。

人権・自由・人道支援財団(İHH)は、イスラエルの襲撃で亡くなり遺体がイスタンブルへ移送された9名の氏名を公表した。
İHHからの情報によると、死亡者の氏名は以下の通りである。
イブラヒム・ビルゲンさん、アリ・ハイダル・ベンギさん、ジェヴデト・クルチラルさん(İHHスタッフ)、チェティン・トプチュオールさん、ネジデト・ユルドゥルムさん(İHHスタッフ)、フルカン・ドアンさん、ファフリ・ヤルドゥズさん、ジェンギズ・ソンギュルさん、ジェンギズ・アクユズさん

İHHによると、チェレビ・ボザンさん、オスマン・クルチさん、アイドゥン・アタチさんは行方不明またはイスラエルの病院で治療中の可能性がある者の中に含まれている。
イスラエルがガザ支援船に対して行った攻撃で亡くなった9の支援ボランティアのうち8名の遺体がファーティフ・モスクへと運ばれた。
「アッラーは偉大なり」という声やイスラエル反対のスローガンとともにモスクの中庭に並べられたイブラヒム・ビルゲンさん、アリ・ハイダル・ベンギさん、チェティン・トプチュオールさん、ネジデト・ユルドゥルムさん、ファフリ・ヤルドゥズさん、ジェンギズ・ソンギュルさん、ジェンギズ・アクユズさんと、トルコ出身でアメリカ国籍のフルカン・ドアンさんの遺体はトルコ国旗につつまれ、テーブルで増設された(棺を置くための)台の上に安置された。
同時に、同攻撃で亡くなったİHHのジェヴデト・クルチラルさんには、明日同モスクで葬儀が行われると伝えられた。

氏名            出生地・出生年       埋葬地
ジェヴデト・クルチラル   カイセリ・1972年    イスタンブル
ネジデト・ユルドゥルム   マラトヤ・1978年    イスタンブル
イブラヒム・ビルゲン    バトマン・1949年    スィイルト
アリ・ハイデル・ベンギ   ディヤルバクル・1971年 ディヤルバクル
ジェンギズ・アクユズ    マルディン・1969年   ハタイ
ジェンギズ・トプチュオール オスマニイェ・1956年   アダナ
ジェンギズ・ソンギュル   コンヤ・1963年     イズミル
ファフリ・ギュンドゥズ   アドゥヤマン・1967年   アドゥヤマン
フルカン・ドアン      アメリカ国籍・1991年  カイセリ

■19歳のフルカンの頭部などに5発の銃弾

İHHカイセリ支部のオメル・ヤームール氏は記者会見において、死者の一人である19歳のフルカン・ドアンさんがカイセリ科学高校に在籍中であると発表した。ヤームール氏はアメリカ旅券を所持していたドアンさんがトルコ出身であることに触れ、彼の頭部などに5発の銃弾が撃ち込まれ、うち4発が頭に、1発が胸部に命中したと述べた。
またドアンさんは至近距離で上から銃撃されたと述べ、18時30分に遺体がカイセリへ移送されると話した。

■カイセリで埋葬

イスラエルがマーヴィ・マルマラ号に向けて行った攻撃で亡くなった9名の一人で、アメリカの旅券を所持していた高校生である、19歳のフルカン・ドアンさんは、明日カイセリで行われる葬儀の後埋葬される。エルジエス大学経済・経営学部のアフメト・ドアン准教授の息子で、カイセリにある私立ヒサルジュルクルオール科学高校のF/12-B最終学年に在籍していたフルカン・ドアンさんは、İHHカイセリ支部を通じてガザへの支援船に乗船していたことが分かった。

大学教員の父親アフメト・ドアンさんがイスタンブルまで息子を迎えに行くと同時に、彼がイスラエル軍の発砲で、額に4発、胸部に1発受けた銃弾によって命を失っていたことが明らかになった。痛ましいニュースの報道とともに、カイセリのメリキガーズィ郡バハル大通りのシシュリアパートにある彼の家は悲しみに包まれた。イスタンブルに向かった父親のアフメト・ドアンさんとİHHカイセリ支部のオメル・ヤームール副会長は、若くして亡くなったフルカン・ドアンさんの遺体を湯灌場で洗った後、葬儀のためファーティフ・モスクへと移送した。

■息子の元気な姿を見るためイスタンブルに来た

İHHオメル・ヤームール副会長は、「誠に遺憾です。フルカンさんはアメリカの旅券を所持していたため、トルコ人犠牲者の中に名前がありませんでした。最終的に犠牲者の遺体が母国へ戻ってきたときに彼の死亡が判明しました」と話した。父親のアフメト・ドアンさんは、「息子が犠牲になったことをイスタンブルで知りました。元気な姿の息子を出迎えるために昨晩イスタンブルへ来たのです」と語った。

このころ、フルカン・ドアンさんのバハル大通りにある自宅にはトルコとパレスチナの大きな国旗が掲げられ、最終学年に在籍していた私立ヒサルジュルクルオール高校のホームページでは写真が掲載され、下に「ガザへ向かった支援船に乗船していた本校F12Bクラスの学生フルカン・ドアンさんは、イスラエル軍が行った攻撃の犠牲となりました。すべての家族、友人そしてアトラス教育機構のスタッフに対し、哀悼の意を表します」と書かれていた。

■出生はアメリカ

フルカン・ドアンさんは、大学教員である父親の都合でアメリカで生まれ、2歳まで同国に滞在していたためアメリカ旅券を所持していたことが伝えられた。

■祖父:孫が犠牲になった

ドアン一家の3兄弟の一人であったフルカンさんの家では、彼の死が悼まれ、祖父のムスタファ・ドアンさんは「悲しみと喜びを同時に感じています。なぜなら、私の孫が犠牲になったからです。とても穏やかで礼儀正しく、我慢強くて冷静な子でした。あの子を亡くした悲しみを感じる一方で、神聖な目的のため犠牲になったことに喜びを感じてもいるのです」と語った。

不運なフルカンさんが通っていた高校のシュアイプ・オウズ副校長は涙ながらに「フルカンさんの死には我々みんなが驚きました。満ち足りた人生を送る学生でした」と述べた。犠牲となった学生の家にトルコ国旗が掲げられ、学校の友人たちが家の前に集まり涙を流した。一方、彼の棺はイスタンブルで行われる葬儀の後、今夜飛行機でカイセリに運ばれる。フルカン・ドアンさんの棺は明日、フナト・モスクで行われる昼の礼拝の後、市営墓地に埋葬される。

■重体の二人の負傷者はイスラエルに残った

トルコの「ガザ船団」は軍事行動への抗議のため、呼び戻された。昨日解放された数百人もの「活動家」の帰還後に、イスタンブルに到着した在テルアビブ大使のオウズ・チェリキコルは、すぐにアンカラに向かった。大使は「訓令に従い、協議のために戻ってきた」ことを述べた。

オウズ・チェリキコル大使は、アンカラのエセンボア空港で記者の質問に応え、避難活動の完了を待っていたため今までトルコへ戻って来なかったことを述べ、「完了後、訓令に従い、協議のために戻ってきた」と話した。行方不明の3名が発見されたとの報道に関し「現在は何かを話せる状況ではない」と述べた大使は、「昨日490名と19名の負傷者、9名の遺体が移送された。もちろん今日、必要な調査の後に、いずれにしても外務省によって説明がなされるでしょう」と話した。

またチェリキコル大使は、2名の負傷者が重体であり、トルコの医師団からトルコへ移送する許可が下りなかったことを述べた。さらに大使はイスラエルで行ったすべての会談の要点は、拘束され負傷しているトルコ人と遺体のトルコへの移送にあったと述べ、(イスタンブルに到着するまでの)避難活動は長い手続きの後完了したと語った。

■法医学:全員が武器により襲撃された

法医学協会の専門家たちは、ガザ支援船への襲撃で命を落とした9名が火器による銃撃を受けており、体に弾痕があったと述べた。AA通信記者がイェニボスナにある法医学協会の専門家から入手した情報によると、9名の支援ボランティアが火器による銃撃を受け、体に弾痕があったことが判明した。亡くなった活動家の一人は至近距離から発砲され死亡したとことが確認された。専門家は、遺体の一部は服がなかったため、最終的な結論は弾道調査後に出ること、またこの報告が出るまで約1カ月かかるであろうと述べた。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:大門志織 )
( 記事ID:19320 )