ジュムフリイェト紙主幹イルハン・セルチュク氏、バジベクターシュに埋葬
2010年06月24日付 Milliyet 紙
ハジベクターシュで行われたイルハン・セルチュク氏の葬儀に、約3千人もの人々が集まった。
ジュムフリイェト紙主幹、また主筆であったイルハン・セルチュク氏が、遺言により、ネヴシェヒルにあるハジベクターシュ郡にある兄トゥルハン・セルチュク氏のお墓の隣に埋葬された。ハジベクターシュ市長アリ・ルザー・セルマンパクオール氏は、3千人が参列した葬送で、イルハン・セルチュク氏が3年前、ここに埋葬して欲しいことを自身に話していたことを述べながら、「中世の暗黒時代に、人々を開明させる灯明を灯したハジベクターシュのように、また独立戦争を始める際ここに来て、民衆のリーダーらに共和国建国を述べ、革命を説いたアタテュルクのように、彼の魂も平安でありますように」と述べた。葬式に参列した人々の一部は、イルハン・セルチュク氏を「エルゲネコン一派」として拘束したゼケリヤ・オズ検察官に対し、抗議した。
治療を受けていたイスタンブルのヴェフビ・コチ・ワクフ・アメリカン病院で多臓器不全のため亡くなったジュムフリイェト紙主幹、主筆であったイルハン・セルチュク氏の遺体は、昨日(23日)の夕刻、ハジベクターシュ郡にある市立病院の遺体安置所へ運ばれた。今日24日に、郡内のジュムフリイェト広場でイルハン・セルチュクのために葬送が執り行われた。葬儀には、共和人民党(CHP)会派副代表ケマル・アナドル、CHP議員アリ・ルザー・オズトゥルク、ドゥルドゥ・オズボラト、トルコ大国民議会元副議長ヒクメト・チェティン、元大臣アレヴ・チョシュクン、かつての議会関係者であるヤシャル・オクヤン、ウルチュ・ギュルケン、アリ・ルザー・ギュルチチェキ、民主左派党(DSP)党首マスム・トゥルケル、DSP元党首ゼキ・セゼル、シシュリ市長ムスタファ・サルギュル、アタテュルク思想協会(ADD)総取締補佐・元組織指導官エルドアン・カラクシュ、映画俳優タルク・アカン、イルハン・セルチュクの妻ルハン・セルチュク夫人と妹のウフレト・エルテル各氏など、約3千人もの人々が参列した。
■オズ検察官に抗議
葬儀の場で、イルハン・セルチュク氏の棺の横に、「トルコ国民が生んだ賢人」と書かれた大きなポスターが掲げられた。この間、葬列に参加した人たちは、新しい党をつくらず、CHPを支持したムスタファ・サルギュル氏に対し感謝の意を表した。人々はトルコ国旗に包まれたセルチュクの棺に、赤いカーネーションの花を手向けた。貴賓席に連なった人々と市民は、一人ひとりセルチュクの棺に手を触れ、氏との別れを惜しんだ。
参列した人々の中には検察官ゼケリヤ・オズの辞職を要求する者もおり、「イルハン・セルチュク氏をエルゲネコン一派として拘束し、彼の健康状態を悪化させた張本人はゼケリヤ・オズ検察官である」と叫んだ。葬儀の最後では、芸術家であるエルダル・エルズィンジャン氏がサズと歌による小さなコンサートを行った。
■「『偉人墓地』に受け入れます」
バジベクターシュ市長アリ・ルザー・アルマンパクオール氏は、イルハン・セルチュク氏が自身をこの地に埋葬してくれるよう頼んでいたことを、以下のように説明した:「2007年、ハジベクターシュで『神との合一』をテーマとした講演を行いましたが、その際二人でその会場に入ったのですが、彼は具合を悪そうにしており、その顔は真っ青でした。講演を中止するよう申し出たのですが、聞き入れませんでした。会場は黒山の人だかりでした。そのとき、セルチュクに心臓発作が起きたことを、私たちは医師に聞いてあとから知りました。知識人であることの要因が人々を教え導いてくれるということを我々に示してくれた一方で、2007年のあの講演の日に、自身をここに埋めてくれよう頼んでいたのです。『偉人墓地』には、アレヴィーの人だけではなく、後世にまで残る偉業を成し遂げた全ての賢人、人々を教え導いたすべての人を受け入れます。この点において(信仰による)差別はありません。」
■「ハジベクターシュのように、アタテュルクのように」
ハジベクターシュ市長セルマンパクオール氏は、ジュムフリイェト広場で行われた葬儀で、セルチュク氏がこの地に埋葬してくれるよう自身に頼んだこと、今日その願いが叶えられたことを話し、以下のように続けた:「科学と文化の中心地で、この時代の最も偉大な啓蒙家の一人であったイルハン・セルチュク氏の最後の旅立ちを見送るため、私たちはここに集まりました。今日、私たちは再び一つになりました。大きくなり、力強くなりました。『その時が来たら、願わくばハジベクターシュに埋葬されることを』と語っていた。セルチュクよ、あなたは正しい道を歩んだのだ、今、ハジベクターシュにて眠りにつこうとしている。トルコ内外から、何千といった数の人々が集まり、あなたを今日、見送るのです。あなたの心に平安あれ。親愛なる私たちのイルハン・セルチュク!
愛、平和、友情、知識と文化の中心地であるハジベクターシュから、あなたが遺した思想、執筆、著書の数々によって、あらゆる人々を教え導き続けるでしょう。中世の暗黒時代に、人々を開明させる灯明を灯したハジベクターシュのように、独立戦争を始める際、まさにここに来て、民衆のリーダーらの前で共和国建国を誓い、革命を説いたアタテュルクのように、あなたの魂も平安でありますように。」
■アレヴ・ジョシュクン:いずれ今回のつけは回ってくる
ジュムフリイェト紙取締役会長で元大臣のアレヴ・ジョシュクン氏は、葬儀で行った話の中で、「イルハン・セルチュク氏の身体はこの侮辱に耐えられなかったのです。体調を崩し、病院に入院することになりました。彼をこうした精神的拷問が殺したのです。アフメト・タネル・クシュラルやウウル・ムムジュのように、彼も報道への使命のために命を失った犠牲者なのです」と語った。
イルハン・セルチュク氏にこのようなことを行った人たちは、ある日必ず、尋問される側になるであろうことを述べたジョシュクンは、「つけは回ってくる。わが友よ、いずれ彼らにつけは回るのだ。セルチュク兄弟はハジベクターシュに埋葬されることを特に望んでいました。彼らは神との合一を信じていたのです」と語った。
ジュムフリイェト紙編集局長ミヤセ・イルクヌルも、「この広場を埋める人々のなかに、イルハン・セルチュクの生きた証があるのです」と述べ、以下のように続けた:「左右にぶれないコンパスのような存在だったイルハンは、私たちの父親のような存在であったのです。私たちは父を誇りに思っています。エルゲネコンと言いながら、手にした油まみれの汚い土を、私たちの父になすり付けようとしました、しかし付きませんでした。ともかく、こうしたことを続けるなら、朝晩「わがスルタン万歳」といっている人々(権力にしがみ付き、媚びを売ることに夢中な人たち)にしたらいいのです。権力者グループの二度目のエルゲネコン訴訟で、イルハンの精神はやられてしまったのです。すなわち、私たちの兄、私たちの父は借りを返してもらう立場になったのです。ピール・スルタン・アブダルのように。この落とし前をきっちり見届けるつもりです。イルハン・セルチュクの論集も、ムスタファ・バルバイの詩集もここに留まることはありません。それを、君主の胸に、ハジベクターシュ・ヴェリにあずけましょう。それをここに植えるのです。どこから芽が飛び出してくるか、未来のイルハン・セルチュクたちが誕生するでしょう」
イルハン・セルチュクの亡骸は、ジュムフリイェト広場での葬儀の後、チレハーネに運ばれ、「偉人墓地」に埋葬された。
葬送の後、参列した人々に対し、自治体からロクム(お菓子)がふるまわれた。
■アレヴィーたちによって神聖なる場所と認められている
イルハン・セルチュク氏が埋葬された、また兄のトゥラン・セルチュク氏や、有名な歌い手であったマフズニ・シェリフの墓があるチレハーネにある墓地は、自治体によって「偉人墓地」という名がつけられている。
郡の中心から1.5キロ離れた場所にあるチレハーネは、ハジベクターシュ・ヴェリの修道場の核をなす最も古い建物の一つである。有名な思想家が修業に励んだというこの場所は、時間とともにアレヴィーたちによって神聖なる場所とみなされるようになった。毎年、ハジベクターシュ・ヴェリ記念式典のため、アレヴィーたちはここでデリクタシュを通り儀式を行うことで、自身たちの安らぎを得る。傾斜の激しい丘の上にはハジ・ベクターシュ・ヴェリが修業したという小さな洞穴、その洞穴がある丘に位置するチレハーネ、そしてその下方にあるザムザムの湧水と呼ばれる泉、その泉の上には、それぞれ1559年と1908年に建てられた2つの碑がある。チレハーネの隣にハジベクターシュ・ヴェリに関連する敷物とクルンチュの岩が残っている。
今日イルハン・セルチュクが埋葬されたチレハーネには、オザンラル・ヨル、ハジベクターシュ・ヴェリ、ユヌス・エムレ、ピール・スルタン・アブダル、アシュク・マフスニ、アシュク・ヴェイセル、そしてセマーを踊る者たちの彫像がある。また、「暗闇から光へ-博愛」という記念碑も立っている。
この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る
( 翻訳者:西山愛実 )
( 記事ID:19497 )