シェイフ・サイト追悼行事、2つに分裂
2010年06月29日付 Radikal 紙

ディヤルバクルで1925年に始まり、その首謀者の名にちなんで「シェイフ・サイトの反乱」と呼ばれる反乱が鎮圧された後、シェイフ・サイトは逮捕され、彼と47名の同朋がディヤルバクルのダーカプ広場で絞首刑にされた。この度、彼らの追悼行事が開かれたが、その開催をめぐって、子孫らは二つに分裂した。

何人かの子孫は平和民主党(BDP)と民主市民会議(DTK)の支援による追悼行事を開催した一方、子孫の一部は非平和民主党系の追悼行事に参加した。ディヤルバクルのウルモスクの前で「チグリス・ユーフラテス対談団体」のメンバーにより開催された追悼行事では、「シェイフ・サイトとその同朋はクルド人に対し闘争継続を呼びかけている」というメッセージが書かかれたポスターが掲げられた。また、PKKに対して停戦宣言が求められた。追悼行事に参加し、宗教的な恰好をしていた数人の若者は絶え間なく「アッラーは偉大なり、シェイフ・サイトは我らの導者」とのスローガンを叫んでいた。

■子孫による二つの異なった行事

シェイフ・サイトへの追悼行事はディヤルバクルで初めて盛大に行われる予定であったが、それは子孫を二つに分ける結果となった。シェイフ・サイトの子孫のアブドゥリッラー・フラトさんと、シェイフ・ササイトの反乱で側近を務めたジブランル・ハリト・ベイの子孫のタフシン・セベルさんは、自らを「チグリス・ユーフラテス対話団体」と名付けた団体が開催する非平和民主党系の追悼行事に参加した。しかし、シェイフ・サイトの他の子孫であるディヤディン・フラトさん、サメト・ビルギンさん、フェラト・オズソイさんらは、民主市民会議、平和民主党とヌビハル誌、チュラ文化センター、DİAY-DerとDİVESが開催した他の行事を開催した。

■「私たちの先祖の墓はどこに?」と書かれたTシャツ

ディヤルバクル県中央スル郡にある歴史的なウル・モスクの前では、約百名に及ぶ「チグリス・ユーフラテス対話団体」のメンバーが、修復中のモスクの周りに設置された鉄パネルにシェイフ・サイトとその同朋の写真を掛け、「私たちの先祖の墓はどこに?」と書かれたTシャツを着て追悼行事を行った。貴金属商市場の入り口にはシェイフ・サイトの生涯についての会議を告知する大きな垂れ幕がかけられた。モスクの前にはこのほかに、黒地にクルド語で「我々はクルディスタンの指導者と闘争者を忘れることはない。」と記され、シェイフ・サイトに加えサイディ・ヌルスィーとデルスィム反乱の指導者のセイト・ルザーの写真付きの「先祖の墓の場所を示せ」と書かれたポスターが掲げられた。

■最後の言葉を綴ったポスター

 また、ポスターには、シェイフ・サイトが絞首刑の前に言った「今日は人生の最後の日だ。しかし私は後悔していない。私は我が民族のために犠牲となるからだ。ただ一つだけ望みがある。それは、私たちの子孫が敵に対し、我々を誇りにおもってくれることだ」という言葉が掲げられた。また、反乱の組織者の1人ジブランル・ハリトによる「私はあなたに対し1人でいるのではない。私の背後には、イラク、メソポタミア、そしてトルコに多くのクルド人がいる。今日あなたは私を絞首刑にするが、いつの日か、私たちの子孫はからなずあなた方を追いはらう」という文句や、シェイフ・サイトの近しい友人であったケマル・フェヴズィの「クルディスタンは天国のような場所。私たちのもの。その家主は私たちです。誰が何と言おうと、私たちは再びその地に行く。どのような力もこれに対抗することはできない。これは私たちの土地なのだから」という言葉が書かれていた。

モスクの前に集まった人たちの一部は手にシェイフ・サイトの写真をもっていたが、その上には血を象徴するかのような赤い塗料が塗られていたことが注意をひいた。追悼行事に参加した宗教的な恰好をした数人の若者は演説のあいだ、ときどき「アッラーは偉大なり、シェイフ・サイトは我らの導師」とスローガンを叫んだ。

■「先祖の墓を示せ」

追悼行事を開催した「チグリス・ユーフラテス対話団体」を代表して演説したムヒッティン・バトゥマンル氏は、シェイフ・サイトとその同朋をクルディスタンの自由への殉教者であると言い、次のように述べた。
「世界で指導者が処刑されたのち、その墓を知らないただひとつの民族はクルディスタンの民族である。我々のリーダー、導者、祖先の墓の場所を知ることは、人道的、イスラム的、民主主義的な権利です。大統領、首相、そして国会議長へ対する私たちの願いは、我々の祖先の場所を私たちに示せ、ということです。「クルド問題解決策」に至る道はここからはじまるのです。」

■PKKは即時停戦を

ムヒッティン・バトゥマンル氏は、地域で最近起きた事件に関連した提案も列挙し、また次のように話した。
「PKKは即刻、停戦を宣言するべきだ。国家と政府関係者は武力行使が解決をもたらさないということをもっとはっきり公言しなければならない。対話の場所が設けられなければいけない。この土地に住む者やNGO組織が交渉相手にくわえられなければらならない。政府は早く代表団をディヤルバクルとその周辺地域に派遣し、全グループの考えに耳を傾け、報告し、その報告書を検討しなければならない。ディヤルバクルで、早急にトルコの、全ての立場の人々、NGO組織、作家、学識経験者をあつめ、2日間の会議を開催しなければならない。この会議には、イスラム主義者、社会民主主義者、自由主義者、社会主義者、民族主義者、そして他の思想を持つ者も参加すべきだ。シェイフ・サイトの処刑の際残した言葉は「意味のないことで絞首刑に処されるつもりはない、私の反乱は私の宗教、そして国民のためであるからだ」であった。」

■過去と向き合わなくてはならない

シェイフ・サイトの反乱の首謀者のうちの一人であるジブラン・ハリトの子孫のタフシン・セベルさんも演説を行い、1925年の反乱は正しく、合法的なものであったと主張した。セベルさんは、「もし1925年にこの問題が解決されていたなら、そしてクルド人の要求が通っていたなら、85年間血が流されることはなかっただろう。西アナトリアからやってくる19、20歳の人たちが広大な山々に埋葬されることがなかっただろう。解決策は、クルド人に合法的で、当然の権利を認めることだ。そのために適切な環境を整えることだ。過去に向き合わなければならない」と話した。厳重な警備のしかれた追悼行事に関する記者会見に参加した者たちは、その後、無言で静かにその場をあとにした。なお、明日、Cegerxwin文化センターで シェイフ・サイトのためのパネルディスカッションが開催され、その後19時に絞首刑にされたバーカプ広場で記者会見が行われ、その後、追悼のメヴリット詩が読まれる。

■カメル・ゲンチ「世俗主義の共和国には、災難だった」

トゥンジェリ選出の共和民主党議員であるカメル・ゲンチ氏は、共和国成立の後、東南部で最大の反乱を起こしたシェイフ・サイトが絞首刑を受けた広場で追悼されたことに反発し、「世俗主義の共和国には、とんだ災難だ」と言った。トルコ通信社へコメントしたトゥンジェリ選出の共和民主党であるカメル・ゲンチ氏はシェイフ・サイトが絞首刑を受けた広場で追悼されたことに関し、次のように語った。
「興味深いことですね。これは、トルコ共和国の世俗政権を取り壊すことを意味しています。シェイフ・サイトは、世俗主義を廃し、この国でシャリーア法を用いるだめ、反乱を起こした人物です。クルディスタンをつくるためだとも言われているが、本当の目的は世俗主義を攻撃することと、かわりにシェリーア法の適用です。そのため反乱を企てたのです。そうした反乱を起こした人々を追悼するということは、もはや(AKP)政府が世俗主義を尊重していないがゆえに、反乱を起こした人を追悼し、この人々が賞賛されているということです。世俗政権はもはやトルコに残っていないということですご愁傷さまです。世俗共和国には災難です」

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( 翻訳者:畔上曜子 )
( 記事ID:19544 )