バトマンで地雷被害者の葬儀「30年の努力のすえに、なぜ・・」
2010年08月02日付 Radikal 紙

バトマン県で地雷が爆発し、その結果バトマン県弁護士会の前会長を含む4人が死亡し埋葬された。人権協会の前バトマン県支部長サリフ・オズデミル氏の兄弟であるサブリ・オズデミル氏は「クルド労働者党とその党員達の全てが、この村がサリフ・オズデミルと関係があることを知っていました。30年の努力の末に、何故村に彼らは地雷を置いたのでしょうか?」と言い、困惑を口にした。

バトマン県発―バトマン市に属するデミルビレック村ゴリク・テペ地区のトルコ石油会社の石油採掘所で、テロ組織のメンバーが被害にあった地区に入る道に地雷を設置し、爆発する事件が起きた。その結果、閉鎖された正義平等党のバトマン県の前支部長サリフ・オズデミル氏、スドゥック・オズデミル氏、人権協会の前バトマン県支部長サディ・オズデミル氏、そしてバトマン県弁護士会の前会長セダット・オゼヴィン氏が死亡した。4名の遺体は近親者によって、バトマン地区国立病院の遺体安置所で受け取られた。

オゼヴィン氏の遺体はバトマン・アスリー(現代)墓地に埋葬された。サリフ、スドック、そしてサディ・オズデミル氏の遺体は、デミルビレック村に運ばれた。デミルビレック村での三氏の葬儀には、バトマン県知事のアフメト・トゥルハン氏、平和民主党の副党首ギュルタン・クシャナック氏、同党のバトマン選出の国会議員アイラ・アカト氏、バトマン県の軍警察司令官ヴァフデッティン・ベレジェリ准将、警察署長ハサン・アリ・ビリム氏、正道党の前国会議員ファリス・オズデミル氏や多数の市民が参列した。

三氏の遺体が村の墓地に埋葬された後、設置された弔問のためのテントにおいて、クシャナック氏は新聞記者に見解を述べた。クシャナック氏は「誰もが死からは逃れられませんが、このようになるべきではなかった(このような死に方をすべきではなかった)」と述べた。

クシャナック氏は以下の様に述べた。

「私たちはもうこんなことを受け入れられません。ここの人たちはもう十分に苦しんできました。ここの人たちの心は石炭の様に燃えています。この戦争は、日々、私たちの心の一部である私たちの最も愛する友人や近親者、同志を私たちから奪っています。しかしながら、私たちはまだ、理性や良心、そして人間性を失ってはいないことをアッラーに深く感謝します。誰かの様に、私たちは未だに遺体の傍で(始末しろ)などと演説をしません。私たちは戦いは止めろと話しています。ここの人たちはとても大きな悲しみを目撃しています。今日私たちが経験している苦しみは、私たち全員の心を深くえぐる苦しみです。今日、私たち全員は、一人一人と抱擁すること、一人一人が連帯感を示すこと、一人一人の苦しみを分かち合い、耐えなければなりません。私たちは、私たちの家族に関わる全ての近しい者たちの苦しみを分かち合い、またこの苦しみを私たち自身の苦しみだと思い、そしてこの苦しみを終わらせることを望んでいます」と述べた。

人権協会のバトマン県の前支部長であったサリフ・オズデミル氏の兄弟であるサブリ・オズデミル氏も、クシャナック氏が彼の意志や考えを示してくれたと述べた。

オズデミル氏は、家族として,特に兄がこの国に平和をもたらすために、30年にわたって努力してきたことを強調した。オズデミル氏は「兄の思いをこの道に置きました。兄はいつも平和と民主主義のことを話し、また決して武器を認めませんでした。私の兄は平和を望んだために、党内に留まるための彼の意思を彼らは望んでいました。しかし、彼は(私は私の意思を貴方方の様な人たちに伝えることは出来ません。民主主義の国で生活出来ることのために、私の意思のために、30年努力してきました。私は私の意思を貴方方にお伝えしたとき、私は空の人間となるでしょう)言葉で彼の意思を伝えられず、政治の舞台から身を引きました。その後彼はこの村に定住していました。兄の30年に渡る民主化への努力に対するプレゼントが、一発の地雷でした。アッラーが離れませんように。私たちは何があったのかを知っています。クルド労働者党や党員たちの全ては、この村がサリフ・オズデミルに関係があることを知っていました。30年の努力のすえに、何故彼の村に地雷を置いたのでしょうか?」と述べた。

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( 翻訳者:濱田裕樹 )
( 記事ID:19842 )