CENGİZ ÇANDARコラム―「十分ではないが悪くもなかった」エルドアンのディヤルバクル演説
2010年09月04日付 Radikal 紙

何日もの間、待ちわびられていたタイイプ・エルドアン首相のディヤルバクル演説から何を読み取るべきか。タイイプ・エルドアン首相のディヤルバクル演説の「主題」に何があったのか。ディヤルバクルは何日間も待ちわびられていたこの演説をどのように受け止めたのだろうか。演説から自身について何を見出したのか。
ディヤルバクルのシャーのもとでトルコのクルド人たちは南東アナトリア自身について、そして「問題」について何を感じたのか。
演説ではこれらの疑問についての明確な解答は得られなかった。
「テキルダーやアンカラで何を話そうと、ディヤルバクルでも同じことを話す」と述べる首相は、この言葉を特に強く主張した。演説の中で登場した「ユーフラテス川の西」側のデリケート性を危険にさらす「ナショナリスト発言」によって自身を痛めつけようとしている人々への攻撃を支援するものではない、巧妙で上手い演説だった。 
しかし、ディヤルバクルや南東アナトリアの人々の「精神的な優先性」を保護し大切にするという点では、大幅に前進したとは言い難い。さらに内容の面からでは、かの有名な2005年12月12日の演説に並んだとも言い難い。
また、「テキルダーやアンカラでの」演説とは別に、ディヤルバクルでの演説を見たところ、演説に「地域的な飾り」を付け加えたようだ。
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■これが「地域的な飾り」の一部だ
「真夜中に道の真ん中で首筋に銃弾を撃たれ殺害された未解決の事件の悲しみを良く知っている。家が襲撃を受け散らかされることがどのようなことであるか良く知っている。本が出版中止にされることを知っている。村の中心に集まる村人らに振るわれる暴力を知っている。村が空っぽにされることを知っている。刑務所にいる息子とクルド語で話すことができない母親の悲しみを知っている」。
この「飾り」の中で最も強力なのは次の言葉の中にあった。
「アペ・ムサやムサ・アンテルの悲劇を忘れることはできない。オルハン・ミロールの悲劇を忘れることはできない。シヴァン・ペルウェルの憧れを見ずには行けない。アフメト・カヤの死は頭から離れない」。
これらはクルド人の気持ちを良く見せる言葉だ。しかし、自身が大きくなるのに貢献する板の上を超える度量にあるのか。
クルド人の悲しみを忘れることのできない、そしてこのように認識している首相は、この悲しみを誰にどのように伝えるのだろうか。
タイイプ・エルドアン首相の演説でもう一つ注目を集めた点は、ディヤルバクル刑務所に関するものだった。「ああ、そのディヤルバクル刑務所について話そうか、ああ、9月12日の後に起こったことを説明しようか、その5番目の建物について話し拷問について説明しようか」と言いながら今までどの首相も話さなかった言葉を述べた首相は、「ディヤルバクル刑務所を閉める。新しい刑務所を取り壊す。そこが存在していることで9月12日を常に思い出さないようにしたい」と述べた。
しかし、ディヤルバクルとクルド人は、全く逆のことを望んでいる。ディヤルバクル刑務所は、クルド人の味わった悲しみと経験した迫害が決して忘れ去られることのないようにということでディヤルバクル刑務所を「迫害博物館」とすることを望んでいる。ディヤルバクル刑務所は「クルド人アイデンティティ」の正当性のために博物館として存続させられることを望んでいる。
つまり、解決策は、ディヤルバクル刑務所の取り壊しではないのだ。
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クルド人の心にあった、そして答えを待っていたたくさんの質問の答えは、タイイプ・エルドアン首相にとっては一般的な民主主義と自由の言葉だった。クルド人のために今日までなされた全ての前向きな取り組みを数え、「将来の見通し」を9月12日の国民投票が開ける「扉」という非常に曖昧な見方に委ねている。「この憲法改正で全てが終わるわけではない。2011年の選挙の後より広い基礎を持った憲法の建設を始める。今は扉を開くのだ」。
その「より広い基礎を持った憲法」の中に「新しい国民の定義」とクルド人がどのように表記されるのかについての明確な方向性は今のところ示されていない。また巧妙な言い回しをし、地域での本来のライバルであるBDP(平和民主党)と「戦争を引き起こす」表現を避けた。BDPは演説の中で2回登場した、「ここではBDP,エルズルムではバフチェリが、勢力のある我々に演説の本文を書かせるというトラブルに陥った」と述べ、そしてその際にBDPをわきに置きバフチェリに対して「親愛なるバフチェリ氏、言いたいことがあるのならディヤルバクルに来てください。ディヤルバクル広場で言いたいことを言ってください。ディヤルバクルの人々の前で話してください」と述べた。 
その後、BDPの名前を出さずに、「ボイコットは反民主主義的な取り組みと捉えている。そこには『はい』があり、『いいえ』がある。A党もなければB党もない」と述べた。
彼がディヤルバクルの中心でこれを述べている時、アブドゥッラー・オジャランも最後のメッセージで「ボイコット」をより明確な形で説明した、そして「積極的なボイコット」の呼びかけをした。この「コード」の解決法は、BDPに対する「ボイコット」という手段で大胆な基礎的な取り組みの要請をすることだ。
タイイプ・エルドアン首相のディヤルバクル演説は、「ボイコット」についてーもしあるとすればだが、不安をぬぐい切れていない地域の住民の行動に影響を与えられるほどの力があるのだろうか?
この答えは、9月12日にならないと分からない。
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タイイプ・エルドアン首相のディヤルバクル演説は、内容では2005年の12月12日の演説と同じレベルで考えられない質であったとしても、群衆と興奮は、2005年の12月12日と比べ、それを高く評価するレベルだった。
ディヤルバクル警察によれば、3万人がディヤルバクル広場に集まった。ネヴルズ祭りを10万人の規模で行い、ハブルから来た人々を10万人で出迎えたディヤルバクルにとっては、少ない数字である。しかし同時に、タイイプ・エルドアン首相以外の「国の」政党の党首がディヤルバクルで獲得することができない数である。
最も重要なのは、「ディヤルバクルの雰囲気」が、クルドの政治的な行動でBDPとその他の党の間で国民投票にたどりつくまでに起こった衝突を明確にしたことにあった。国民投票の結果によって、トルコのクルドの政治的行動における「変化」が始まる可能性も明らかになった。タイイプ・エルドアン首相が9月12日以降選挙に向けて歩む道によって、この「変化」は早くもなりうるし遅くもなりうる。
首相の演説で「問題」が生み出した疑問の答えよりも、答えを9月12日に得られうる疑問が出てきた…

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( 翻訳者:小松裕美子 )
( 記事ID:20090 )