Hasan Cemal コラム:CHPクルチダオール党首選出は偶然だったのか、それとも?
2010年10月23日付 Milliyet 紙

共和人民党(CHP)は、大統領官邸で行われる共和国記念日のレセプションに出席するのかしないのかを、いまだに議論するような政党だ。

CHPは大学でのスカーフ着用禁止という、この恥ずべき差別の撤廃について、いまだに議論するような政党だ。

CHPは最高裁判所共和国首席検事の、反民主主義的な、そして政党や議会に棍棒をちらつかせるような発言を、いまだに歓迎しているするような政党だ。

果たしてこんな考えでCHPは選挙に勝てるのだろうか。

とてもそうとは思えない。

CHPがこうした考えで選挙に勝てたとするなら、党首がデニズ・バイカル氏(前CHP党首)でも勝てたに違いない。

いや、実際には勝てなかった。

1990年代以降バイカルが党首となってから、CHPは選挙という選挙に負けてきた。

そうではなかったというのか?

ケマル・クルチダルオール氏が党首となると同時に、CHPは一瞬、世論調査で30%もの支持率を得た。さらにはそれ以上も。

しかし希望への道は長くは続かなかった。
信頼できる調査では、クルチダルオールへの支持率は現在最高でも24%に留まっているとみられている。

CHPがかつてのCHPのままでいるうちは、そして自身がバイカリズム(バイカル主義)から脱却できないでいるうちは、勢力を盛り返し、人を納得させるような政権を担いうる政党になることなど、夢のまた夢である。

別の言い方をすれば、CHPは変わらなければならない、もしその帆を政権という風で満たしたいのであれば・・・。

延々と同じことを言い続け、それで違う結果を待つなどということは頭の良い人間のすることではない。特に1990年代初めからCHPは常に同じ路線を敷いてきたが、選挙には勝てなかったではないか。

なぜ?理由は?

この疑問にケマル・クルチダルオール党首は十分に頭を悩ませているだろうか。それは私には知りようもない。しかしこれは頭を悩ませねばならぬ問題だ。
この点で、1960年代の終わりから1970年代のCHPについて考えてみるのは興味深いだろう。

というのも、かつてエジェヴィト党首はあの時代、自らの周りに集めた一流の学者たちや、社会の下層出身のしっかりとした組織人らとともに「時代の風」を掴んだからだ。CHPは、軍や国家主義との間に距離をおいた。権威的な世俗主義の解釈に疑問を呈し始めた。そして労働者や農民のための融和策を取り始めた。エジェヴィト党首率いるCHPはこのおかげで、つまり変化し、自らを刷新しながら、そして(イスラム主義派の)エルバカン氏との連立を組むまでに根底から変化を遂げながら、続けて2度の総選挙で勝利したのだ。1970年代には…。

しかし、それ以降は、勝てていないのである。

40年前、1970年代の話だというのは承知している。
もちろん40年前に戻ることなどできないし、40年前のことを今日のCHPに提言することもできない。

つまり私が言いたいのは以下のことだ。
今日のCHPも変わらなければならない。党自体を刷新しなくてはならない。それも根底から。

バイカル党首はこれができなかったために選挙という選挙で負けたのだ。

デニズ・バイカルは、過去にしがみつき、民主的な手足をもがれてしまった「官僚主義的寡頭政治」の代弁者となり、複数政党制移行以前のいい方でいうなら「新しい変化」から党を遠ざけ、そして、政治の場で常に敗者となる平凡な演者となりはてた。

もちろん変革は簡単ではない。

特に政治において「時代の風」を掴むことなど容易ではない。
最近私は英国労働党の前党首トニー・ブレア氏の回顧録を読んでいる。
16年間野党にとどまり、古く、化石化した労働党を、1990年代に「新左派」プログラムでどのように変革し、新たに政権を担ったのかについての色鮮やかな物語は、CHPのための教訓に満ちている。

このチャンスを無視せぬように。

このままでは、CHPも、民主党(DP)や公正党(AP)や正道党(DYP)のように歴史のアーカイヴに取り残される日が来る。

最後の問いを問おう。

ケマル・クルチダルオール党首の就任はただの偶然の産物なのだろうか、それともリーダーとしての素地があったからなのだろうか?

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( 翻訳者:原田星来 )
( 記事ID:20481 )