アフマディーネジャード「“イラン的”なる語に過敏になっている人がいる」
2010年10月26日付 Mardomsalari 紙

大統領は、「一部に“イラン的”なる語に過敏になり、民族主義やナショナリスティックなことを意味するかのように思っている人がいるが、そういうことでは全くない。我々はただ、イスラーム的でイラン的な構想を追い求めているだけだ」と述べた。

 マフムード・アフマディーネジャード大統領は、テヘラン大学アッラーメ・アミーニー・ホールで開催された、「ソフトな戦争全国シンポジウム」の開会式に出席し、〔…〕出席者らに対し「西洋諸国がこれまでどのようなことをし、現在何をおこなっているのか、しっかりと見て欲しい」と語りかけ、次のように続けた。

彼らは理論的レベルでは〔…〕、人間について簡単で誰にでも理解できるような定義を提示してきた。〔…〕彼らは、〔生まれてから死ぬまでの〕70年から80年という限られた範囲のなかで人間を定義し〔=時間を超越した存在には関心を示さず〕、「人間的本能」および「最大限の快楽」〔の追求〕という〔人間中心主義的かつ功利主義的な〕原理の上に、〔人間の〕本質を置いてきた。そこでは、人間関係は生存競争に基礎付けられるものであり、社会はリベラルなそれを志向し、統治〔の理想〕はリベラル・デモクラシーである、とされてきた。

〔…〕こうした思想・基盤にもとづいて、さまざまな言説が生産されてきたし、今も生産され続けている。こうした思想・基盤は、その後の〔彼らの世界に対する〕あらゆる企図の背景をなしている。つまり彼らは、経済的・社会的・政治的・文化的計画の一切を、こうした基盤にもとづいて描いてきたのである。〔…〕

〔…〕

 大統領はまた、以下のように述べた。

ここで“イラン的”という語を強調しておきたい。“イラン的”という語に過敏になり、民族主義やナショナリスティックなことを意味するかのように考える人がなかにはいるが〔※イスラームの宗教指導者を指す〕、そういうことでは全くない。我々は〔世界や未来に対する〕イスラーム的でイラン的な構想、イラン的でイスラーム的な思想体系に基礎付けられ、イラン的でイスラーム的な力に依拠した構想を追い求めているにすぎない。

イスラームに関するイラン的解釈こそ、我々にとって行為の基礎である。現在イスラームに関するさまざまな解釈が世界中からだされている。果たして、世界にはイスラームに関して、一つの解釈しかないといえるのだろうか。そうではない。イスラームに対する統一的な理解など可能だろうか。これも否である。イスラームをどう理解するか、つまりイラン的イスラーム理解こそ、われわれにとって行為の基礎となるものなのである。無論、この場合の“イラン”とは、民族としてのイランを意味するものではない。

 さらに大統領は、以下のように続けた。

事実、イラン的な〔イスラーム〕理解こそ、真理にもっとも近い。我々は、イラン的なイスラーム理解にそって、将来の構想を立てている。我々は自身の能力に合わせて、計画を描く必要がある。50年以上もの間、我が国には開発計画というのものがあった。革命の前後の数年間にも計画というものがあったし、今も第5次計画を目前に控えている。しかしどの社会部門でも、最低限の安らぎが得られたことはないし、これからもないだろう。それは、これらの計画が一方でイラン的でイスラーム的な文化にもとづくものではなかったからであり、また他方でイランの能力に依拠しない、〔西洋からの〕借り物だったからだ。

〔※訳註:以上のアフマディーネジャード大統領の発言は、側近のラヒーム=マシャーイー大統領事務所長が8月に、「イスラーム主義」に対する「イラン主義」の優越性を示唆する内容の演説を行い、革命前のイラン民族主義を彷彿とさせるものだとして、高位の宗教指導者らから非難の声が上がったことを念頭に置いている〕

(本記事はAsahi中東マガジンでも紹介されています。)

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( 翻訳者:水谷陣也 )
( 記事ID:20519 )