トルコから北イラク・クルド自治区への大学進学、失望広がる
2010年11月24日付 Radikal 紙

クルド語での大学教育を期待して(北イラクの大学へ)入学したトルコ国籍の生徒は厳しい事態に直面している。

トルコにおいて母国語での教育論争が、「人権の一部である、そうあるべきだ」、「国を二分してはならない」と両論にわかれる昨今、トルコの南にある北イラク・クルド自治政府での教育はクルド語で行われている。さらに、ダフーク、アルビル、スレイマニイェでは大学でもクルド語で教育が行われ、トルコからの入学も認めるという。これらのクルドの大学がトルコからの入学者を最初に受け入れたとき、その期待は大きかった。しかし現在学生たちは「あちら」に行くことへの熱心ではない、何故か?

トルコから大学進学のために北イラクに来たクルド人学生は母国語で勉強できることには満足している。ただここで習得する学位の有効性の問題と、近年(クルド自治政府が)トルコから来る学生たちに対してあまり歓迎的でないことが、希望者が減っている原因である。こうした類のマイナス要因にもかかわらず、北イラクでまだ勉強しようとしている学生がいるということは驚くべきことだ。しかし話してみるとよくわかったのだが、彼らには「クルディスタン」において大学生でありたいという、より大きな動機がある。

クルド自治政府は、当初からトルコ、シリア、イランむけに学生定員を割り振っていた。外国学生の受け入れは、ヘウレール(アルビル)にある中央委員会を仲介して運営されている。クルディスタン外からきた学生は一定の予備教育を受けるのが条件だ。選択している学科によってクルド語か英語を学ばなくてはいけない 。これはイランとシリアから来たクルド人にとっては楽勝である。しかしトルコから来た学生は、英語学科以外では、文字にアラビア文字を使うソラニ語を勉強する必要がある。なんとかソラニ語を学んだとしても学生には次の問題が待ち受けている。

■セルダ・ムハンメッド・フェターさん

セルダ・ムハンメッド・フェターさんはトルコから来て、アルビルのセラハッディン大学で学ぶ学生である。もともとはディヤルバクル県ディジェの出身である。

(中略)

「(4才の時に)ディヤルバクルからイスタンブルに移りすみました。祖父母だけがディヤルバクルに残りました。・・・20年間、イスタンブルに住んでいます。資産のある家でしたが、イスタンブルでは一軒の家を買うのが精いっぱいでした。兄弟のなかで、一番、クルド民族主義的だったのは私です。2005年の10月ごろ、父がポスタ新聞を読んでいて、メフメト・アリ・ビランドのコラムを私にみせました。『知っているかい、(クルド自治政府議長の)バルザーニーがトルコからも学生を受け入れるそうだ』と。そのころ、トルコで大学に入学できないでいました。成績はよかったのです。だけど大学入試試験で希望の学部に受からなかった。大学入試のシステムは新しくて、いろんな事が混乱していました。機械工学学科を希望していました。ただ試験で点がとれませんでした。父がここ(クルディスタン)で学べるかもと言って以来、勉強に集中できませんでした。私はここを選択肢のひとつだと思いました。1982年にトルコから追放され、スウェーデンに移り住んだおじさんが少し調べてくれました。クルド文化研究財団(kürt kav)が仲介してくれました。私はザザのクルド人です。音楽を聴いてクルマンジー語を勉強しました。クルド文化研究財団に姉と一緒に応募しました。姉は(地域の進学校である)アナドル高校を卒業していました。(進学校だったので)彼女の成績表の点は私より低いものでした。私は普通高校卒業でしたので、成績はもっとよかった。たぶん、85点相当だったと思います。農業工学部に受かりました。

学んでいる学部について言うと、言葉の点ではとてもいいものです。けれど私の学部は一流の職業人をつくる学科ではありません。学ぶのは楽しいけれど、得るものは少ないのが実情です。授業はアラビア語で行われています。数学は特に問題なかったので、一年目は楽に及第しました。二年目はアラビア語がすごく難しくなりました。先生たちは、私の決意と態度をみて、私への試験は英語でやってくれました。全員に封筒にいれて問題用紙を配るのですが、他の人へはアラビア語なのに私には中に英語で書かれた問題が入っていました。社会的な環境の点では、ここは私には魅力的ではありません。ダンスやお酒が好きなのですが、ここでは暮らしに自由がありません。アラブ人の文化は好きではないのでアラビア語は勉強しませんでした。例えばスペイン語なら、もっと簡単に学べたのに・・・。しかし、四年もたてば、アラビア語にも耳が慣れてきました。アラブ世界では学問の言語はアラビア語なのです。

■頭が混乱する

ここはクルディスタンには違いありませんが、自治制を始めたばかりです。私はクルド人で、ザザ語を話し、第二言語はトルコ語です。もしかするとこの先トルコでクルド語教育が行われたらもっとよくなるかもしれませんが、今は、ここの教師の大多数はバグダートやカイロ で学んだ人です。彼らの科学用語はアラビア語です。教師はアラビア語の教材、成績をくれます。その後でクルド語に訳すのです。私はこのため、アラビア語と英語、ソラニ語で教育を受けています。頭が混乱します。それに、この地域では皆暗記の文化の中で育っています。先生は、暗記していることを、学生の前にでて説明するのです。私が質問をするとおどろかれます。これは私の専門ではないといいます。しかし私の考えでは、農業工学の教授はどの範囲についても詳しくなくてはいけないはずです。私はザザなので、ソラニ語の件でも苦労しました。クルマンジー語の音楽を聴いて自分のキャパシティを広げました。ここではソラニ語を、クルマンジー語とくれべながら勉強しました。ここでは私のような出身のものがやってくると、5つの別々の言葉の単語を知り、理解しなくてはなりません。 ここまで違う言語の間にある共通点を見つけようとすることは、まるで過去にさかのぼる旅のようです。私はここにきて、先進国に来たわけではない気が付きました。

■トルコ語で「アンネ(お母さん)」といって、殴られた

ここにくるまでは、もっと理想主義者でした。ここでも、クルド民族主義者でなくてはなりませんが、そうではありません。その理由もあります。ここに来たのは18才のときでした。トルコ語がおかしいといって馬鹿にされるような場所(=イスタンブル)から来ました。ここにくるまで、一度としてこれほどクルド人らしい暮らしをしたことはありません。ディヤルバクルこそが故郷です。イスタンブルではつねに、よそ者でした。常に、同化しないよう、足をふんばっている必要がありました。「同化」政策のなんたるかを理解し、それに対してクルド民族主義を主張しようとした一家に育ちました。1992年にイスタンブルに来たとき、トルコ語をしりませんでした。通りに遊びにいき、クルド語しか、わかりませんでした。子供たちはみな、「アンネ(お母さん)、サンドイッチつくって!アンネ、水ちょうだい」といっていました。アンネと言う言葉を遊びながら学んで、家に帰って、母に、アンネ、といったら、父親になぐられました。アンネというんじゃない、ダーイェといえと。トルコ語を話したら口を洗え、といいました。これは、一種の「防衛」でした、同化に対する。私たちがディヤルバクルからイスタンブルに移住せざるをえなかったとき、おじいさんには4人の孫がいました。今は40人です。私がイスタンブルにきたときは、タンス・チルレルが首相のときでした。私たちは、どんなときも、(クルド人を)裏切りませんませんでした。

(中略)

■私たちが血を流させたのではない

21世紀を生きているのです。討論番組で話す人のいうことはどうにも理解できません。上の世代の考え方は、馬鹿っぽくみえます。だれかのアイデンティティを、これほど恐れるって、どういうことなんでしょう。歴史の授業で、先生は、血を流し、この地(アナトリア)を血と引き換えに得た、と教えました。ここ(イラク)までやってきて、モースルやキルクークもトルコのものだというものさえいます。そこはトルコの領土だと。彼らに対し、こう思います。もし、あなたたち(トルコ人)が100年前の国境をどうこういうのなら、私は、メッツ人の時代の国境はどこだと問います。私は、クルド人の偉人を誇りに思います。彼らは、血と引き換えに、領土をえたわけではありません。ただ、彼らの手から奪われたものを取り返そうとしているだけです。私たちは血を流してはいません。ただ、自分たちのものを望むといっているだけです。

■マフムト・ジェイダンさん

北イラクにトルコから来た最初の学生の一人であるマフムト・ジェイダン氏もセルダさんのようにディヤルバクル出身だ。

(中略)

「高校は、ディヤルバクルで終えました。遺伝物理学を希望していましたが、大学入試で合格しませんでした。ここ(北イラク)とは、いろんな関係がありました。祖父は、サイト・クルムズトプラクと一緒に、ここにきた一人です。祖父は1968年から1975年まで、ここに住んでいました。クルド民主党にいたので、その関係で、シリアや北イラクとつながりがあったのです。私が最初にきたのは2004年のことです。父が、ここの教育省と関係があったので、ここで学ぶ、という話が持ち上がりました。私も、来たいと思っていました。すぐに「はい」と返事をして、やってきました。2カ月間、このあたりを見て回り、調べました。スレイマニイェ、ドゥホク、ザホ、アルビルと。この地のために、貢献することもできると思っていました。高校の成績の条件も合致し、加えて2、3の推薦状もあったので、英語・英文学学科に進むことができました。一時期、ドゥホクで学びました。その後、移籍をして、アルビルのセラハッディン大学に移りました。希望の学科は、昼間の教育でしたが、私は働きながら勉強することを希望していました。このため、(夜間部のある)政治学科に登録しました。勤務時間の自由な仕事につきました。その頃は、大学も夜間でした。

私はここに初めて来た学生の一人でした。前例はありませんでした。教育システムもはじめは、私は魅力でした。ここでの教育システムに何か貢献できるとも思っていました。授業の言語は主にソラニ語かアラビア語です。クルマンジー語を知っていたため、ソラニ語が全然わからないわけでもありませんでした。だけど難しかった。そのころは語学のコースもありませんでした。だけどすごく勉強して、皆においつくまで勉強しました。ここに進学した学生たちは言葉を学ぶだけで1,2年かかりますが、私は、短い間で習得しました。

トルコからここに進学した学生たちの30%はトルコの大学入試に受からなかったものです。一部は、トルコの大学入試に受かっても、希望の学部に受からなかった者たちです。しかし、ここでクルディスタンが建設されたことは、トルコのクルド人学生を必要以上に魅了しました。ある意味で、母国語での教育を実現する努力だったといってもいいでしょう。トルコにクルド語教育があれば、ここにはあまり学生は来ないでしょう。しかしそれは私には遠い夢のように思われる。このほか、進学した学生の一部は、父親、祖父の夢を叶えるために、ここに来たようです。

■資格認定の問題

国立大学については、トルコやイランとは資格認定の問題点をかかえています。数年前にこの件で話し合いがあったようです。しかしトルコはここで習得した卒業資格を認定しない方向です。その際の議論は、完全にトルコから留学した学生を基準に考えられています。イラク生まれのクルド人は別扱いされていることは知っています。彼らの卒業資格は認められる一方、トルコからの進学者の卒業資格は認められないのです。ヨーロッパとアメリカでは状況は完全に異なり、(ヨーロッパやアメリカは)ここで習得した卒業資格を認定しています。

■トルコからの期待は下がった

今現在、クルディスタンで学んでいるトルコから来た学生の数は200人以下です。この学生のほとんどはアルビルで学んでいます。私たちの委員会もそこにあります。私は、トルコからの学生を呼ぶために力を尽くしました。2006年にはトルコからおよそ1000人もの申し込みが来ました。クルド人だけではなく、トルコ人で申し込んだ人もいました。この1000人のうち400人の入学が認められました。しかし私は、2008年にその委員会をやめました。申し込みの数も次第に減少しました。制度のせいで生徒数が減少したのです。トルコから進学した学生たちは、どうしても、(イラク社会との)協調問題をかかえがちでした。そうした状況は教師にマイナスの見方を植え付けました。簡単に言うと、ここでは、トルコから進学した生徒に対し、ひどい態度がとられました。生徒は一人、二人と、希望がかなわず帰国せざるをえなくなりました。ここの教師は、どんなにクルディスタンで教えていても、それぞれの育ってきた過去があるのです。誰にでも15年以上の学術的背景があり、何人かは頑固なバース党気質をもっています。

クルド人教師はトルコからきた生徒をつなぎとめようとしましたが、このバース党気質のアラブ人教師らは彼らを追い出そうとやっきでした。それゆえ 、私たちが連れてきた学生400人のうち少なくとも250人はトルコに帰りました。全体でいうと、去った数は700人です。残りは25%ほどです。問題は、政府に、真剣で明確な政策がないことです。私たちは特別扱いをされたくはありませんが、理解は求めます。初めは、優遇されていると感じていました。そのために希望者が増えたのです。それゆえ、学生をトルコから連れてきて、登録させることもできたのです。2006年は1000人の申し込みがありましたが、2007年には300人、2008年には150人に減少しました。ここ2年間は20~30人の申し込みがあるだけです。トルコから来て、(PKKの)マフムル・キャンプで暮らしているものには問題はありません。彼らはここの人という(=イラク人の)ステータスです。

■クルド人であることは、ここでは罪ではない

トルコにいたとき、別の思いをいだいていました。やってきたのは、その思いのせいです。はじめのうちは、いい調子でした。しかし、その後、だんだんうまくいかなくなり、いまでは、困難に直面しています。ここは、外から見えているのと、ちがう場所だったのです。それでも私たちが今でもここに残っているのは、クルド人意識をもって気楽に生きられるからです。トルコのいろんな場所で暮らしましたが、いつも緊張していました。(東の)スィロピから(西の)エディルネに至るまで、どこにいっても、落ち着かずピリピリしています。ここなら、その手の問題はないのです。泥棒や殺人もありません。6年前にきたとき驚いたものです。両替所のような場所でも、見張りがいないのですから。それは今でも、同じです。」

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( 翻訳者:小幡あい )
( 記事ID:20774 )