友人たちは、10年前にパリで亡くなったアフメト・カヤのために一堂に会した。リュトゥフィ・クルダル・ホールにはカヤの歌が響いた。
■「彼を差別する発言はなくなった。さあ、声を大きく!」
昨日(11日)、リュトゥフィ・クルダル・ホールのロビーに足を踏み入れた人々は、こう書かれたパネルに迎えられた。彼とはアフメト・カヤのことである。10年前の12月11日、パリで、いつの日か祖国に戻ることを夢見ながらその生涯を閉じたアフメト・カヤ。
パネルの上には、1999年付の、アフメト・カヤを告発した新聞の切り抜き。その先には、天井からぶら下げられたフォークのオブジェ。床にも、何十というフォーク。天井からは、何十個もぶらさがる。ぶら下げられたフォークは、あの日を想起させる。
1999年、雑誌・新聞記者クラブの式典において「クルド語の歌を歌っていくつもりです。これを放送してくれるテレビ局を探しています」と発言したために、会場にいた一部の人々は、カヤを「分離主義者」と非難し、フォークやナイフが彼に向って空を飛んだ。
事態は坂を転がり落ちるように悪化していった。アフメト・カヤに対する裁判、反対運動、脅迫、そして、彼はパリに逃亡した。その後は知っての通りである。2000年12月11日、傷つき、疲れ果てた彼の心臓は、その鼓動を止めた。ちょうど10年前の昨日のことだった。
「彼のいない10年」を思う人々は、昨晩、リュトゥフィ・クルダル・ホールに集った。会場は人で溢れかえり、この10年のうちに怒りを情熱へと変えていった、熱気に包まれていた。20時15分に照明が落ちると、カヤの友人たちが一人ずつ舞台にあがった。初めに舞台に立ったのはスルル・シュレイヤ・オンデルだ。後からロジンがクルド語民謡「アフメド」を謳い、そのすぐ後にはフアト・サカ、ミフラン・トマスヤンが続いた。前半のフィナーレは、ウミト・クバンチが制作したドキュメンタリー、「凧が電線にからまった」が飾った。これは、カヤとの対話から紡ぎだされた、彼の人生の物語だ。
「彼のいない10年」の夜、後半は、前半よりも陽気に過ぎて行った。
舞台に上がったたくさんのカヤの友人たちは、改めて彼の歌を歌った。その夜、最も喝采を浴びた瞬間の一つは、大きなスクリーンにシヴァン・ペルヴェルが映し出された時だった。グランドフィナーレではユスフ・ハヤオールが登場した。彼はギュルテン・カヤ(アフメト・カヤの妻)の兄弟で、アフメト・カヤの歌の中にも登場している。
ギュルテン・カヤは、閉会の際、「(夫が)亡くなってからずっと感じていた孤独が、今晩軽くなりました」と述べた。
■会場の外では抗議行動も
追悼の夜を、腕にトルコ国旗を持ったグループが、「売国奴に哀れみを示すのは裏切りだ」と書いたプラカードを掲げて抗議した。厳重な警備を敷き、自動小銃をもって任務にあたっていた機動隊が、この100人ほどのグループをただちに解散させた。
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( 翻訳者:能勢美紀 )
( 記事ID:20946 )