Cengiz Candar コラム:歴史からみるリビア
2011年02月22日付 Radikal 紙
まず、チュニジア、次に最重要のエジプト、そして今はリビア・・・。ドミノのように、強権的な体制が次々に倒れている。エジプト以後、広く問われるようになった問いは、これがドミノ効果を生み、アラブ世界、中東を覆うのかどうか、だ。
■3つの隣国
リビアに波及したことにより、北アフリカの一部におけるドミノ効果は確かなこととなった。少なくとも中東アラブ世界のこの地域の現象は「オスマン・ドミノ」ともいえるだろう。
互いにつながった3つの国はいずれも、何百年にもわたってオスマン帝国の領土だった。これにアルジェリアを加えることができるが、アルジェリアは19世紀の初頭にフランスの手に落ち、イスタンブルの統治と影響から早期に離脱した。
■バルカン戦争とリビア
リビアは、バルカン戦争の戦火がせまるなか、1911年にオスマン領から失われ、イタリアの占領下に置かれた。チュニジアやエジプトに比べ最後まで残っていた北アフリカ領だ。オスマン帝国の「トリポリ州」が、現在のリビアにあたる。
42年間のカダフィー独裁があったとはいえ、チュニジアとエジプトに挟まれたこの国が、両側からの混乱を影響を受けないとは考えにくいことだった。カダフィーも、もはや終わった、といえるだろう。42年間の時代錯誤な構造は、ようやく崩壊した。リビア第二の都市ベンガジは、カダフィーという名の精神病患者の手から48時間前に解放され、今は首都トリポリが揺れている。
■リビアの地政学的位置
トルコの2倍の国土に620万の人口しかない、このリビアという名の国は、歴史的にみて3つの地域からなっていた。トリポリを中心とし、ミスルータやスィルトのような都市を含むトリポリタニア、ベンガジを中心とするデルネ、トブルクのような都市を含むキレナイカ、南にはチャドにつながる広大な砂漠で、オスマン人の流刑の地でもあったフィザーン。
リビアという地名も、キレナイカやトリポリタニアの地名も古代ギリシャやローマ時代に由来する。リビアの地政学上のこの3地区の特徴は、同時に、遊牧部族ごとの、アサービーイェ(部族意識)の差異も伴っている。
これらの3地域はイスラムによる征服の結果としてひとつにまとまり、長期にわたるオスマンの支配、および第二次世界大戦後の国家体制、そして当然ながら、石油収入のおかげで、一つの地政学上のまとまりとして受け入れられてきた。
しかし、国の西側はチュニジアの、東側はエジプトの影響を強くうけてきた。アラブ民族主義の嵐が吹き荒れた時代に、ムアンメル・カダフィーが、27歳の将校としてクーデターをおこし、国王を倒し政権を得たときには、エジプトのナセルを模したものだった。その後、石油収入のおかげで、数知れない馬鹿げた行動にもかかわらず、石油の力・アラブ世界の力のバランス・国際的な力のバランスを利用し、42年間、政権を維持した。
■チュニジアとエジプトにつづき
まずチュニジアではじまり、最重要のエジプトでも、何十年もつづいて力の均衡がくずれたことが、カダフィーにも終末をもたらした。ベンガジ陥落の報に接し、私は、思わず、カダフィーのリビアは終わった、と呟いた。ベンガジは、何度も訪問したことのあるリビアのなかで、はじめて訪れた町であり、もっとも好きだった町でもあった。
■オスマン帝国の痕跡
ベンガジに行ってみると、そこにはトリポリからの影響が全く及んでいないことがよくわかる。トリポリとベンガジの間には千キロ以上の距離がある。トリポリがベンガジを統治できないことは、30年前、我々がまだ中東についてあまりよく知らなかったころでも、すぐ感じられたことだった。
オスマン帝国の痕跡と、それより濃厚なイタリアの影響の感じられるこの地中海岸の都市で、カダフィー大佐と面会した。しかしベンガジからはるか離れ、砂漠のなかに築かれたテントで!カダフィーの、「テント・ファンタズィー」で象徴されるリビア政府が、グローバリゼーションの作り出す強力な波にさらされたとき、それが動揺するのは当然のことだった。
■最有力部族、アル=ズヴァイーヤとアル=ヴァルファッラ
チュニジアとエジプトに大波が襲い、リビアでは、カダフィー中心主義の棺桶の釘が打ちつけられることになった。
ベンガジ周辺に居住するこの地域の最大部族のうち、アル=ズヴァイーヤとアル=ヴァルファッラが蜂起したとの情報がある。カダフィーは、彼が最後まで支持したエジプトのムバーラクとは反対に、人民に対し武器を向ける狂気に走り、本来「部族構造」をもつこの国で「血の復讐」を宣言した。これにより、政権に留まる可能性はゼロになった。
カダフィーは、何十年にもわたって個人崇拝を強要し、何時間も「民衆革命、民衆革命」と叫ばせた民衆の前には出てこない。
■父と息子たち
結局、息子のセイフルイスラーム・カダフィー氏を、民衆の前に立たせた。彼は、人々に対し「内戦」で脅し、「最後の一人まで戦う、リビアをイタリアにも、トルコにも渡さない」と言った。
中東の1970年台のリーダーだった共和主義アラブ体制をみてほしい。イラクではサッダムのあとにウダイとクサイ、シリアではハーフズ・アサドのあとにバスィルとバッシャル、エジプトではホスニ・ムバーラクのかわりにジェマルが準備されていた。リビアでは、ムアンメル・カダフィーのかわりに、セイフルイスラーム。シリアをのぞき(シリアは、別のメカニズムが働き)、それ以外はすべて、ゴミ箱いきとなった。リビアの連中も、そのゴミ箱行きの途中だ。
■リビアの月星旗
カダフィーの息子セイフルイスラームが、リビアの国家統一、すなわち、政権の存続を確保するために利用した脅しは、かつての宗主国イタリア、現在ではトルコに対し、民族主義を奮い立たせることだった。
カダフィー独裁政権は、トルコとトルコ人を敵視していたことを、政権からの去り際に宣言することとなった。この体制の崩壊は、トルコにとって有益なことだ。
我々は、トルコ政府に対して政府がエジプトのムバーラクに対してとったような態度を取るようにともとめるべきだろうか。リビアには2万5千人のトルコ人がおり、エジプトとは違い、リビアでは流血をなんとも思わない狂人が政権にしがみついている。トルコ人を安全に避難させるには、政府が慎重な態度をとるのは妥当なことだ。トルコが中東で「民衆の声と変化」の側にたっていることは知られている。これを繰り返すだけで、十分だろう。
リビアは、隣国エジプトと同様、過去の歴史像と本来のアイデンティティにもどりつつある。我々はこれを、カダフィーの緑の旗のかわりに再び現れた旧リビア国旗をみたときに、理解した。赤、黒、緑の中央に、月と星!「オスマン・ドミノ」により、(イスラムの)月と星が、再びもどってくる。
(本記事は
Asahi中東マガジンでも紹介されています。)
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( 翻訳者:トルコ語メディア翻訳班 )
( 記事ID:21613 )