第7回《聖なる知恵》セミナー、イラン国営放送の尽力により開催
2011年05月01日付 Jam-e Jam 紙
殉教者モタッハリーは、国民崇拝すなわちナショナリズムは禍々しい現象であると考えていた。それは人類の利己主義から生まれたもので、イスラームはそれを洗い清める努力をしている。イスラームが人類への贈物としてもたらしたものは、ナショナリズムという枠組みのなかには含まれていない。むしろイスラームは、国民という概念を越えたもの、あるいはモタッハリーのことばを借りれば、インターナショナリズムを人類にもたらしたのである。
殉教者モタッハリーは《国民的自覚》すら批判の対象とした。彼は著書『コーランにおける人間』の中で、「《国民的自覚》は利己主義の範疇を越えるものにあらず。むしろ同族なり。それは、狂信や味方意識、つまり自らの欠点を認識しない態度や己惚れなど、利己主義のあらゆる病理を有している。したがって、階級意識と同様、国民的自覚には自ずから道徳的側面が欠けているのである」と記している。
イラン人の国民性こそイスラーム世界の変化の原動力になったと主張する人たちがいるが、こうした主張とは反対に、殉教者モタッハリーは次のように考えていた。すなわち、まずはじめに、イスラームがイラン人の中に文化的変化を引き起こし、その後イラン人はイスラーム文明という建築物への貢献を果たすようになった。そしてこの文明の構築作業において、イラン人は他の多くの民族を凌駕するようになった、と。
殉教者モタッハリーの見方では、真理を追い求め、盲信を避けようとするイラン人の気質こそ、彼らの大いなる科学的・宗教的飛躍を生んだのである。彼は『イスラームと時代の要請』という著書の中で、「イラン国民は自己愛を抱いてはいるが、しかし同時に、国民的狂信によって彼らの目が曇り、耳が塞がれるようなことはなかった。これはイラン国民の誇りである」と述べている。
( 翻訳者:多田直輝 )
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