コラム: アラブのメディアの変化 情報メディアは変わらなければならない
2011年05月25日付 al-Quds al-Arabi 紙
■アラブのメディアの変化
2011年5月25日(『クドゥス・アラビー』)
アリー・ムハンマド・ファフルー
先にドバイでアラブ報道会議が開催された際に、(衛星放送の)テレビ局であるアラビーヤが開催したあるシンポジウムで、「政治の変化とメディアの変化という挑戦を前にしたアラブ」というテーマで議論が行なわれた。議論の焦点となったのは、従来型のメディアとフェイスブックやツィッターといったソーシャルネットワークの比較であり、アラブ世界を席巻する若者たちによる革命に人々を動員するにあたって一体どちらの方がより有効であるかという点であった。
私が思うに、こうした比較はメディアの細かな技術に拘泥し、目的、目標、内容を犠牲にして手段に関わるあまり、アラブのメディア関係者がしてきた努力を無にしてしまう。
このシンポジウムで問われたふたつの問いとは、求められている政治的な変化という挑戦に関するものであり、さらにはアラブのメディアが政治的な変化に足並みをそろえ、それに貢献しなければならないというところに関わるものなのだ。
政治の問題に関して言うと、輝かしい革命を引き起こし続けているアラブ世界の若者たちこそが、それを取りあげ、その挑戦に応え、注視ようとしている。革命の最初の段階の立役者となったこうした若者たちは、革命という船を安全な港へ届けるためには、手段、努力、犠牲を惜しみはしない。
アラブのメディア関係者が今の段階で力を注がなければならないのは、メディアにおける言説に求められている変革だ。今、目の前で繰り広げられており、これから何年も支援と支持を必要とするような政治的な大きな変化に貢献するような言説が必要なのだ。ニュース、分析、思想的革新、象徴的なイメージや使命感のある芸術というような形で。
私が思うに、アラブの情報メディアはその言説において重要な変革をふたつ成し遂げなければならない。
ひとつは過去何世紀にもわたってアラブの歴史を支配してきた専制と、精神的にも決別するような方向へと、アラブ社会を駆り立てることに関係する。というのはスルタンのお膝元のさまざまな法学派やお抱え詩人の類、そして庶民のことわざの中にも、アラブ社会のには専制という思想や実践を受け入れる部分があるからである。人々は専制を強さを混同し、そしてアラブ人の精神の中でそれは正しいものとされていったのだ。
この嘆かわしい姿を拒絶し粉砕するうえでは、アラブのメディアは従来型のものも新しいものもともに、基本的な役割を果たすことができる。必要なのは、政治、経済、社会、文化に関し、社会的な象徴に対してそれに値しないような賞賛のことばや敬称を使うのをやめることだ。
権力や地位を持つ者を前にして深く折り曲げられた背中や(身をかがめて)膝に手を当てた姿を提示したりしないことだ。国民と地位ある者の間に対等の関係が築き上げられなければならない。専制と偽の偉大さを賞賛し正当化してきた一連の歴史をぬぐい去らなければならない。そのリストはとてつもなく長い。
だからこそ、情報メディアの関係者は総合的な戦略が必要となるのだ。何世紀にもわたってアラブの歴史の中で確固たる位置を占めてきた専制のすべての現象をその位置からひきずりおろし、かつアラブの普通の人にとってそれが忌まわしく、厭うべきものになるその時まで。
第二の変革とは、反革命に対抗するようなメディアの言説を作り上げることである。革命が成功したことを受け、各地域の、あるいはアラブ世界のいくつかの勢力が反革命の狼煙を上げつつある。こうした反革命は力を増し、多様性を増すだろう。そしてメディアにおいてそれに対抗するには、臆することなく、反革命の首謀者を暴き、かつ若者たちが反革命の罠に落ちないよう、包み隠された悪魔の甘言につられないよう支援しなければならない。
名誉あるあるアラブの報道が、アラブの革命を成功させ守ろうとするならば、それらは革命に対抗し、革命の若者たちに対抗しようとする一部のアラブのメディアに対して、メディアにおいて立ち向かわなければならない。一部のアラブのメディアが使うもっとも汚い手は、自らをあたかも宗教裁判所のような位置に置くというやり方だ。
なかには次のような例もある。それは人々を、彼らが何をしたかによってではなく、彼らの良心や意図に不当な読みを与えることによって、糾弾する。名誉あるメディアは、こうした遅れた権力のもとにあるメディアに立ち向かわなければならない。こうしたメディアは一部の人をけしかけ、人々の宗教性や良心あるいは意図の純粋さに対して攻撃を仕掛けている。
アラブの情報メディアには過去において過ちを犯したものもあった。限りない数のことば、映像、フィルム、連続ドラマの横溢の中で、人々の感覚を、そして人間としての尊厳に対する感性を鈍らせてきたのだ。今必要なのは、その言説を根本的に変革することだ。アラブの地における輝かしい政治的変革という挑戦に応えるために。
自ら刷新する情報メディアの言説を見たいと望む者は、エジプトにおけるテレビ局のいくつかを見るといい。そして今日の画面と言説を忌まわしい昨日のそれと比べてみるといい。
20年ほど前、アメリカの詩人であるT.S.エリオットはこう自問した。「知識に埋もれて、知恵が見つからず、情報に埋もれて、知識が見当たらない。」もしも輝かしいアラブの革命がもたらす新たな要請と挑戦に応えようとするならば、使命感を持ったアラブのメディアは情報と知識と知恵をひとつにしなければならないのである。
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( 翻訳者:八木久美子 )
( 記事ID:22664 )