Taha Akyol コラム:クルド問題はどこへ?
2011年05月30日付 Milliyet 紙

友人アスル・アイドゥンタシュバシュ氏へアフメト・チュルク氏が話した一言は、他の全ての発言に比べ重要だ。穏健派として知られるアフメト・チュルク氏がなぜ厳しい演説をおこなったのか質問したアスル氏へアフメト・チュルク氏は以下のように話した。
「過去、私は常にバランスを取って話した。しかし、その効用がなかった....。」

この発言は、平和民主党(BDP)の運動でもはや、だれも「バランス取れた」発言をしようと努力しないという表明である。
実際、新しいものではなく、アフメト・チュルク氏は2003年にも「EUの基準はクルド人を満足させない」と語り、その目的が民主主義ではなくクルド民族主義にあることをほのめかしていた。
穏健派として知られるアイセル・トゥールク氏も民主主義的自由では十分でなく、クルド人は「地位」を望んでいると話した。
明らかにトルコで民主主義の発展する時、クルド民族主義は急進化する!チュルク氏も、これに合わせた発言をおこなったのだ。穏健な発言が役にたたないから、という理由ではない。

■遅れてやってきた民族主義

トルコはクルド人問題において重要な展開をしており、それを誰も否定できない。なにより、議論されていない問題は残っていない。アフメト・チュルク氏が言いたいが禁止されているために、話せなかったことはあるのか?クルド語で話すことに関する禁止は解除されている。政府はオジャランと「交渉」している、等…..。

今後実行されることが必要だとして、政治的見解にそって、大変長い、長く、あるいは短いリストで表示することができるであろう。だが、民主主義の発展は否定できない。
問題は実はここにある。つまり、民主主義の発展はクルド人の運動を穏健主義へ、民主主義的な議論や手法へと、向けなかったのである。

逆に、クルド民族主義はさらに拡張主義者となり、より先鋭化した。
なぜなら、その目的が民主主義ではなく、民主主義内で民主主義的方法による解決を模索することでないからである。19世紀のバルカン半島の民族主義者のような、「遅れてきた民族主義」でみられた暴力と拡張主義が、20世紀末におけるクルド民族主義でもその特徴となる状況になっている。

 バルカン半島では、「大セルビア、大ギリシャ、大ブルガリア、大アルバニア」のような熱い民族狂信者による大きな悲劇が起きたのだ…。

■解決は、穏健さのなかに!

クルド人の運動において、「非公式」に印刷され、配布されているクルディスターンの地図にもこのような広大な、無限の国境がある!
「民主的自治、民主的連邦制」の概念は個人・文化的自由ではなく地理的空間に基づく概念である。どのようにそれは地理的か?どの県がその中に入るのか?その県は民族的に均質か?全クルド人は同じ見解なのか?
地理的定義による解決計画は大きな集団の抗争や数百万人もの人の、相互的な移住に道を開くことを歴史は示していないのか?
これらを解決だと思って、このような大悲劇の回廊へ引き込む危険が私たち全員の前にあるのである!

次のこともいっておこう。クルド民族主義はもはや社会・政治運動であり、民衆的な支持基盤がある。何一つ昔のようにならないであろう。リベラルな自治になるか、「民主的自治」といわれる全体主義モデルとなるか、分離となるのだろうか?私は予言者ではない、わからない。

私がひとつ知っていることは、穏健な態度のかわりに過激さがとってかわり、問題が地理的な要素に入り込むと、誰にとっても悲劇が起きるということだ。アフメト・チュルク氏など、全然重要ではない。もともとオジャランが思い悩むべきだ、この恐るべき悲劇の可能性を…。実際、接見しているのであれば、政府もオジャランも解決を、「可能」な枠で穏健な思想で探さなければならない。そして、集団的悲劇の引き金を引く態度からは距離を置かねばならない。

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( 翻訳者:岸田圭司 )
( 記事ID:22710 )