TV出演のレイラ・ザナ「国会にはスカーフしていこうかな」
2011年06月01日付 Radikal 紙


ディヤルバクルから無所属で出馬する国会議員候補、レイラ・ザナ氏は、出演したテレビ番組で、「今回はスカーフをして(国会に)行こうかしら」と、議会での人権侵害が撲滅される必要性を指摘した。

IMCテレビでエルトゥールル・マヴィオールがキャスターを務める番組「ギュンデム・ミュザケレ」に参加したザナ氏は、1991年11月6日に議員として選出された際にTBMM(トルコ大国民議会)における宣誓式の間つけていた黄・赤・緑色(訳注1)のバンダナが、クルド人である母親からプレゼントされたものであったことを明かした。そして、6月12日の選挙で再び議会に入ることになった場合、今回はバンダナではなく、スカーフをつけていくと述べた。(議員宣誓は)トルコ語ではなくクルド語で行うことを考えている(訳注2)と話すザナ氏によると、クルド人は政府に参加するだけでは満足しないという。

ザナ氏によると、「私たちは政府に参画することを望んでいるのではありません。それでは十分でない。国家に参画することを望んでいるのです」と話した。ザナ氏は、IMCテレビ(の影響力)をとても重視していると述べた上で、「平和の声となるでしょう」と語った。ディヤルバクルから無所属で出馬している国会議員候補レイラ・ザナ氏は、IMC報道コーディネーターであるエルトゥールル・マヴィオールがキャスターを務める特別番組「ギュンデム・ミュザケレ」に出演し、デルヤ・サカク、オラル・チャルシュラル、ヌライ・メルト、ジェラル・バシュラングチ、マフムト・オヴュルといった各紙の記者らの質問に答えた。ザナ氏は、最近自身についてメディアで報じられる批判についても回答し、「私はこれまでけんか腰であったことはありません。村に住んでいたときは、女の子は誘拐され、殺されていました。私は両者を和解させたのです」と話した。2時間15分に及んだ番組で、ザナ氏は、1991年に議員選出を打診された際、自身が最初どう感じたか、クルド問題の解決に不可欠なことは何であるか、クルドの女性たちがなぜ戦いの最前線に立っているのかを説明した。

■私はけんか好きではない

これまでけんか好きであったことはありません。(故郷では)女の子の誘拐事件もありました。彼らが手助けを求めて私のところへ来たのです。彼らは言いました。私たちに平和を、と。男性も同じように殺されていたのです。私の遺伝子にはけんかや挑発といった構造はまったくありません。人が人であるために必要なものが何であれ、私たちはそれを持っているのです。

■打診されたが最初は拒否

私に議員候補の打診がきたとき、心から拒絶しました。「私の出自を考慮して話を持ちかけているのなら、私はふさわしくない。他の人がやるべきでしょう」と言いました。そして、「女性としての選出を求められているのなら、大学を出たとても優秀な女性たちがいる。彼女たちに呼びかけて彼女たちにやらせるべきだ」と。この時、私は子どもたちとともにトルコを後にしてドイツに行きましたが、南東アナトリアの問題が大きくなったため帰国しました。その結果、私は最終的に立候補したのです。

■クルドの母のスカーフ

共和国初の議会が開会したとき、クルド人はクルドの服装で来るように言われていました。私は選挙活動の間、1人の花嫁を見かけました。キスして、彼女の母親に、花嫁の夫について尋ねました。すると母親は私の首に抱きつき、泣きながら「行ってしまった」と叫んだのです。私はゲリラに参加したのかと声をふるわせながら聞きました。(PKKキャンプのある)山に行く予定だったのに結婚したのかと。彼女は「違う、逮捕された」と答えました。私なぜ逮捕されたのかと聞きました。すると、車に、黄・赤・緑色のスカーフを結んでいたために逮捕されたのだと言うのです。私の母は、黄・赤・緑色の布で編み物をつくってくれました。そして「私と約束しておくれ」と。「議会がこのクルドの色を禁止したからこそ、お前はクルドの色で訴えておくれ」と言いました。私も「命をかけてもクルドの色をまとう。二言はない」と答え、選挙の間、クルドの色をまとっていました。国会の場にもつけていきました。

■検察官は殴ろうとしてきた

1994年に逮捕されたとき、私を尋問していた検察官は、立ち上がり殴ろうとしてました。次のような質問をしてきたのです。「さて、トルコでクルド人に権利が与えられたら、他の人たちはどうなるのか。彼らも権利を望むようになるのか。」

私はこの質問に対して「そうです」と答えました。「みんなが自分のアイデンティティー、自分の文化を持つ必要がある」と。こう言うと、検察官は立ち上がり、私に殴りかかってきました。もう一人の検察官が彼を押さえつけました。                   

■ススルルク事件が変えた

クルド人は以前のクルド人ではないし、トルコも以前のトルコではありません。世界も変わりました。同化政策はもはやまかり通りません、教育を除いては。体制の権力はクルドを後退させるのに十分ではありません。国家も変わったのです。私はの変化を1996年頃に感じました。ススルルク事件(訳注3)をきっかけに、初めてトルコは社会システムを見直したのです。体制の見直しは、小さな変化をもたらしました。それまで国は国民によって神聖視されていました。国民は国に支配され、権力を認めるべきであり、自らの意思を無条件に国に明け渡すべきだと考えられていたのです。神と僕の関係が、そのまま国家と国民の関係だったのです。

■女性はより自由、なぜなら…

社会で最も自由なのはクルドの女性だと言えるでしょう。なぜなら、公的なイデオロギーの影響下にないからです。体制を知らず、兵役もなく、学校にも行かなかった。自然な生活の中にいたのです。そのような自然な状態の女性が、政治的意識をもったとき、社会革命が起こるのです。封建制度においては彼女たちは人間と見なされていませんでした、しかしいまやクルド女性は社会を左右する存在になったのです。私たちの地域でも精神的革命は起こりました。封建的精神は依然として残っていますが、近年これも変わりました。たとえば平和民主党(BDP)には共同党首制度があります。しかし、法的立場を見ると、女性は依然として補助的な立場にある。女性は、強力な戦いを行っているのです。状況は将来変わるでしょう。正義のない場所に平和は存在しないのです。人々は公正でなければなりません、男性も、女性も。権利はつかみとるもので、与えられるものではありません。社会体制は、封建制度の終わりを望んでいるわけではないのです。

■トゥールク元議員に「奥さん」と呼びかけ

精神的な対立は私たちにとって今でも続いています。「女性らしく、男性の補佐役に」と。共同党首制はドイツのやり方です。私たちの国においては現実的でなく、日常生活においては何の意味もありません。私の地域では共同党首(eş başkanlık)とはどういう意味かという質問を受けます。「Eş」という言葉は私たちの社会では様々な受け取られ方をするのです。本当に多くの場所で、アフメト・チュルク元DTP(民主市民党)党首と話す時、アイセル・トゥールク元議員の話題に話が及ぶと、「奥さん」と呼びかけられています。(訳注4)

■ 多民族国家トルコ

すべての民族グループ、共和国がその存在を覆い隠そうとしてきたグループが、声を上げられないなどということがあるでしょうか。アルメニア人、チェルケス人、ラズ人、ユダヤ人、クルド人、アレヴィー、そして社会主義者たちでさえも自分たちの存在を隠してきたのです。

■南アフリカは解決

(PKKキャンプのある)山岳部にいる人たちを今後どうするのか。山から下ろして社会の中で腐らせていくのですか?彼らの社会保障はどうなるのでしょう。南アフリカはこの問題を解決しました。社会秩序に慣れさせたのです。こうした例は世界にたくさんあるのです。問題を何一つ解決しないまま来いというのか、まるで彼らが休暇にでも行ったかのように。ボル山にスキーをしにでも行ったというのでしょうか。彼らはアイデンティティの戦いを行っており、社会的平和を望んでいるのです。協力して話し合い、議論しながら解決を図るべきです、おそらくは社会と部分的に情報を共有しながら。オジャランとの面会は行われていますが、今どれくらいの段階にあるのかは誰も知らないのです。本当に議論はなされているのでしょうか?これも誰にも分かりません。

■憲法の2つの可能性

まず、憲法は普遍的なものとなるでしょう。特定の民族が重要視されることはなく、各自のアイデンティティーで生きること、地元を自分たちで治めることが許されるようになる。または、全ての民族が重要視される。後者は多民族国家で、前者は単一国家です。ただ、これは議論される必要があります。

■政府ではなく国家への参画

取材陣に政府に参加するかと聞かれ、私は「いいえ」と答えました。政府に参加するだけでは不十分なのです。私たちは国家に参画することを望んでいるのです。現在、クルド自治プロジェクトがクルド人の一部で支持されていますが、戦略的には議論されていません。何が何でもこうしようと接近しているのではありません。相手の反応を見られれば十分です、それにより何があり何が足りないのか知ることができるのだから。

■国は国民のものに

国はクルド人を望まないという立場です。分かとうとしているのは国なのか、定かではありません。だれがクルド人を望んでいないのか、だれがともに生きる意志を表明しているのか。まず、この国は国民国家になるでしょう。また、そうしてできた国民国家はそれ自身の姿に戻っていくでしょう。

■議会にはスカーフ着用で

今回はスカーフをつけて行こうかしら。死にたいのかって?いいえ、そんなことはありません。エルドアン首相は多くの希望を与えましたが、大学では多くの若い女性が夢をかなえることができませんでした。大学は女性に教育の機会を与えているのです。人は他人の頭の中を取り替えることはできないのですから、スカーフだけ変えていったい何になるというのでしょう。私たちは問題を全体主義的にとらえているために、何も変えられないのです。(スカーフ問題では)クルド人にもトルコ人にも、曖昧な解決策というのはありません。自由にさせ、教育を終えさえ、その後に議論すればいいのです。

(国会で)スカーフをしたらどうかとは思いますが、まあ、私には任が重いでしょう。しかし誰かがこの仕事をしなくてはなりません。権利が侵害されているなら、その権利は求めなければなりません。国会は均質性を求めています、皆がダークスーツを着なければならず、頭にスカーフはつけてはいけないというのです。国会は人権侵害をやめるべきです。宣誓の言葉も、いくつかの言語でなされるべきです。アイデンティティー問題から自由でなければなりません。首相は望めばこれを簡単に実現できるはずです。


訳注1:クルドの旗の色
訳注2:前回の当選時には母語であるクルド語で議員宣誓を行ったため、投獄されていた
訳注3: 1996年ススルルクで発生した交通事故。その際車に乗り合わせていたのが国会議員と治安部隊とマフィア幹部であり、マフィアとの癒着問題として明らかとなったスキャンダル
訳注4:「Eş」には同等、夫婦などの意味がある。アフメト・チュルク元DTP党首とアイセル・トゥールク元議員は、DTP解党前、ともに共同党首を務めた。

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( 翻訳者:萩原絵理香 )
( 記事ID:22739 )