スッル・スュレイヤ・オンデル(BDP系無所属)の選挙演説での「秘訣」とは・・・。クルド人の痛み、怒り、そして恐怖を、トルコ人に伝えること、もちろん、トルコ人のもクルド人に。
彼は突然、映画人として現れた。誰も知らなかったし、認識していなかった。しかし、そう、彼は映画人であった。彼は突然、物書きとして現れた。誰も彼が物書きになるとは思はなかったし、認識していなかった。しかし、そう、彼は物書きでもあった。突然、彼が姿を現した政治の場で彼を追いかけるとき、私の頭にある問題の一つはこれ、すなわち本当に、すべては突然だったのか?
スッル・スュレイヤ・オンデルがラディカル紙でコラムを書いていたとき、私は担当編集者だった。つまり私は、メディアのなかで、もっとも新しく、もっとも輝いた花形コラミストの閃きを目にしたものの一人である。政治的な人だったことは議論の余地はないが、政治家といわれるとどうか?物書きであった彼が政治の世界に降り立ったというなら、そこで何をしているのかを知るために、彼のことを追いかけなければならなかった。私は新聞社におけるデスクワークの中で機会を見つけては行って、見て、書いた。
もともとすべて突然ではなかった。彼が和やかに語った人生の物語が、その目撃者だった。彼の世代の、主張する男たちのように、すべては辛い人生の産物だった。スッル・スュレイヤ・オンデルという名は、すべての曲がり角を千の試練と闘争で乗り越えた人生が、そして多くの苦労が生み出したものであった。最初から想定されたブランドではなく、あとで獲得された価値なのであった。俳優、シナリオライター、監督としての映画人であることも、民衆の言葉のなかにある賢明な教えを知的な言葉の格言と混ぜ合わせたスタイル、驚くような視点、そしてユーモアを織り交ぜた文章、こうしたこともすべてこのような人生の産物だった。突然政治の世界に現れたことも、この人生が命じたのであろうか?そうなのだ。「大きな政党」が彼に対し最後まで開放していた扉からではなく、社会主義政党と諸グループ、そしてクルド運動の政治組織の間でつくられた同盟の扉から、政治の世界に登場することを選んだのも、この人生が求めるものであった。
■ 「あのオンデルは走り回っている」
私たちはイスタンブルのゼイティンブルヌにあるドクトル・ズィヤ・ギュン公園がどこか探している。労働ブロック、民主主義ブロック、自由主義ブロックが選挙運動をしている。公園は新しく、みな、その名を知らない。私たちは交番の前に立ち止まっている。当直の警察も知らない。ほかの警察官が助けになろうと近づくが、彼もわからない。私は、「どうすりゃいいんだ、そこで集会があるっていうのに」と言った。彼は笑い、「ああ、それならそう言ってくれよ。あのスッル・スュレイヤ・オンデルはいつも走り回っている、あっち、こっちとね」と言って、公園の場所を教える。
「あのスッル・スュレイヤ・オンデルは走り回っている」。本当に、朝食から始まって、夜中までイスタンブル第二選挙区の端から端まで走り回っている。警察または他の勢力の(3つの大学での講演を中止させられた)妨害にあっても、他のところへ言って他の活動で穴を埋めている。有権者、特に若者らにも同じことを望んでいる。(イスタンブルの)エセンレルでの人々の集会で語ったことが、すべて要約している。
「私たちは労働者だ。人生で何かを勝ち取ったとしたなら、それは労働で勝ち取ったのだ。今回もたくさん頑張ろう。」
ビル群の真ん中にある広々とした場所がドクトル・ズィヤ・ギュン公園だった。7-8歳から13-14歳ほどの多くの子どもが、ブランコや滑り台、スポーツ遊具の上にいるが、滑り台で滑ることもブランコをこぐことも、さらに私たちの知っている遊びをすることもない。(クルドのシンボルカラーである)黄赤緑のスカーフ、小さな旗、リボンを首に巻いている。ある人は顔を覆い、勝利のVサインをし、スローガンを叫んでいる。二つの場所で、一方は完全に女性からなり、もう一方は男女混合の二つの長いハライ(フォークダンス)の列がある。女性と子どもは、スッル・スュレイヤのすべての集会で重視され、前面に出てきている。
公園の上のほうの隅に、選挙カーの前に、演壇と音声機器がセットされた。ある歌手が歌を歌っている。クルド語だ。演壇の前には数千人が集まったようだ。全員に黄赤緑の飾りをつけている。スッル・スュレイヤは遅れているようだ。大学での講演が長引き、道路も渋滞していたらしい。ある老人が演壇に呼ばれ、「mamoste」と紹介された。つまり教師だ。宗教的な引用に満ちた、ナショナリスティックなトーンの、そして苦しみと怒りに満ちた詩を詠んでいる。またクルド語だ。苦しみと怒りは、クルド人らの政治的構図や活動において支配的な感覚である。さらにもう一つの感覚もある、それはそうした広場や集会からは今は消しさられている、すなわち恐怖の感覚である。
■ クルド語解禁の選挙
そこで、ブロックで最大の政党である平和民主党(BDP)の関係者が出て話している。クルド語だ。公園ではみなクルド語を話している。この選挙は、初のクルド語解禁の選挙で、これが十分に生かされている。これは歌あり演説ありの、そして青年グループが時折スローガンを叫ぶ小さな集会で、すこし陽気な、地区の集会だ。スッル・スュレイヤの選挙キャンペーンの間、毎日、時々一日に何回か200-300人から数千人の集団による、小さな集会が行われている。
演壇の後ろにある選挙本部は蜂の巣のように出入りが激しい。前のほうにある席は、村の結婚披露宴のように座って周りを見ているおじいさんたちが陣取っている。左派グループは「民衆の兄弟愛万歳」のスローガンをいつも叫んでいる。
ついにあたりがあわただしくなり始める。彼が来たと言うアナウンスがされ、公園のいたるところで固まっていたグループがメインの広場に流れ込んでいる。彼が上に登って話す予定の選挙ミニバスの周りは大騒ぎ。彼を見るため、触るため、握手するため、皆競っている。刑務所から新聞社に送られてきて、私が彼に届けなければならない預かり物(1枚の鉛筆画が入った)があるので、その小包を渡そうとがんばるが、無駄である。大衆の彼に会いたいという欲求が、私の義務感の何倍も大きい。ミニバスの上に姿を現すや、彼の聴衆には明らかな変化が見受けられる;皆笑っているのだ。恐怖はないと今回私たちは言ったが、付け加える必要がある。陽気さがあるのである、スッル・スュレイヤが来るとこの陽気さが明らかに追加される。歓声と、「her biji(万歳)」の叫びと拍手の嵐だ。どうやら前の演説者たちには、ただ形式的に拍手していたようだ。彼は人々にクルド語で挨拶した後、「Hevalno(仲間たちよ)」と呼びかける。演説が始まる。広場は静まり返る。
■ 「仲間たち!」という呼びかけが駆け巡る
選挙キャンペーンの間、彼は演説のほぼすべてを、「仲間たちよ」と言って始める。社会主義者のシンボルとアピールはすべての彼の演説の中で支配的である。彼は観衆に自身が社会主義者であり、社会主義者は弾圧されている人々と共にあろうとしていると説明する。社会主義の考えの中で、「古い」として軽蔑されている部分を、日々更新して、人々に話しかけているが、それはクルド人有権者のために翻訳しているようでさえもある。この翻訳こそが、彼の「秘訣」なのである。
世界人権宣言を、特に最初の条項をいたるところで頻繁に強調していた。しかし、形ばかりの一般的な翻訳ではなく、自身の言葉で語っていた。「人間は母から、平等と自由と名誉とともに生まれるのだ」。この翻訳の秘訣は簡単だ。専門家の硬い文章語で書かれた文を、民衆が好む「本当の」言葉に変えているのだ。
演説広場でこうした翻訳を最もうまくやった政治家は、ご存知、デミレル(元大統領)だった。オンデルは、その文章(翻訳)により、民衆の言葉のもつ魔法の秘訣の、そしてユミト・カフランジュオールとヤシャル・ケマルが独り占めしてきたその秘訣の相続人であることを示している。政治の場でこれを使う権利がデミレルだけのものではないことを証明しながら。私が彼の名をデミレルと共に言及することに怒るだろうが、実際そうなのだ。もちろん、両者の違いも話さなければならない。デミレルにとってこれは単なるゲームだったが、スッル・スュレイヤにとっては、彼が話しかける人々と同じ土地からやって来たことを示す証なのだ。
■ 野次ることを許さず
公正発展党(AKP)、共和人民党(CHP)、民族主義者行動党(MHP)という名前、またこれらの政党のリーダーらの、または他の高官らの名があがると、野次を飛ばす人が出てくるので、彼は話を中断する。
「それらの政党にも、あなた方や私のように平和、兄弟愛、名誉を持って生きることを信じる人たちがいる。誰にも野次は飛ばさないようにしよう、話そう、私たちの苦しみを説明しよう。責任者の襟をつかもうではないか(責任者を追求しようではないか)、でも誰にであれ、大がかりな野次を飛ばすのはやめよう」。しかし最後には自身が折れて、「私たちが近しいものではなく敵になることを望むものたちへ、私たちの若者たちの命をなんとも思わない人たちへ、私たちのパンや食料に目をつける者たちへは野次を」と言う。
以前の演説者たちがしばしば演説を止めて聞かなければならなかった、戦闘的なスローガンが時折広場から高まる。彼はそれらをも自身の言葉で中止させる。「Şehit namırın(犠牲者は死なない)」というスローガンがあふれると、「どうか誰も犠牲にならず、死なない日が来ますように。そのために私たちは闘争しているのだ」と言う。そうだ、ほとんどが政治に関わるクルド人からなる観衆にたいして、武力衝突で命を落としたトルコ人兵士をも「犠牲者」と言い、自身の話に耳を傾けさせている。「どうか誰も犠牲者にならない日が来ますように。」
彼は、尊敬されるクルド人政治家たちでさえ、その機嫌を取るのに苦労する怒ったクルド人若者たちを前にして、自らの言葉を聞かせることのできる人物なのである。これも彼の「秘訣」の一部分である。
■ スッル・スュレイヤ・オンデルとは誰か
スッル・スュレイヤ・オンデルは1962年にアドゥヤマンで生まれる。テュルクメン人。映画俳優、シナリオライター、監督、コラムニスト。1978年にアドゥヤマン高校の生徒だったとき、マラシュの虐殺に抗議したため刑務所に収監。その後は様々な理由により刑務所暮らしを経験。アンカラ大学政治学部に入学。1980年のクーデタ時にはアンカラにいた。その前科を、「名誉な記録」と言う。2006年に「Beynelmilel(国際)」という映画でその名が知られ、その映画の脚本家、監督、俳優を務める。同年の映画、「Sis ve Gece(霧と夜)」に出演。2008年の「O...Çocukkarı(その…子どもたち)」では脚本を手がけ、「Kalpsız Adam(良心のない男)」では脚本監修を務めた。
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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:22778 )