Cengiz Candar コラム:スィルヴァン襲撃事件、焼け死んだものは?
2011年07月16日付 Radikal 紙

政治の常として、謀略に故意に陥ろうとするものを止められる力は何もない。

かつてハブル国境門での事件が「クルド問題解決プロセス」を軌道から外した。そして今度はスィルヴァンが選挙後の「解決プロセス」を焼きつくしたようだ。スィルヴァン事件で焼けて命を落とした13人の兵士に関して(またPKK[クルディスタン労働者党、非合法組織]からは7名が死亡)、31年前にトルコを去り、もうじき帰国するといわれているケマル・ブルカイ氏は書面で発表をおこなった。文書は私にも送付され、次のように述べられている。

「近い将来、または遠い将来、我々は自由で民主的な国家を作り、そこで文明的な人間のように共に、必ず平等な条件下で生きるということを成し遂げよう。しかし国土に散ったこれらの命はもはや生きることはできない。彼らの命は青春のうちに消えてしまった。何物も彼らの父や母の、また愛した人の痛みを和らげることはできない。

選挙の後になされた一連の過激行動、特に社会で広く反発を招くだろう先日の行動は、新しい民主的な憲法の制定と、クルド問題の解決に向けた前進を妨害しようとする謀略だ。実際このような口実をつける連中は、今からすでに解決プロセスと民主化への歩みを非難し、また政府を包囲下に置こうとし始めている。

この謀略を実現させまいと責任感を抱くすべての人に、何よりも政府にはなすべき任務がある。
首相は先日の行動の背後にいる者について言及された。この者を、冷酷な暗躍者たちを遠い場所で探す必要などない。彼らはこの国に、国家の深部にあり、PKKの内部に及んでいることを知っている。政府はこの謀略を明らかにし、世論を啓発するために、もっと勇気を出すべきだ。スィルヴァンでの事件はあらゆる観点から明らかにされるべきだ。なぜ、ちょうど新憲法、民主化、クルド問題の解決において重大な進展が見込まれている時に、このような流血行動に固執するのか?BDP(平和民主党)は、この謀略を無に帰すために、彼らの役目を果たさなければならない。つまり、無秩序を望むものに利益するような態度は慎み、ボイコットをやめて、変革や民主化への努力を見せるべきだ。」

■首相からBDPに

それでは、首相の「事件」に対する評価はどのようなものか?こう述べている。
「13人の殉職者がいることは間違いなく私たちの心を切り刻んだ。テロリスト集団やその分子は次のことをよく知るべきだ。このような悪意ある行動を起こす者は、私たちに決して良い対応を期待しないように。彼らも、彼らの政治的分子もだ。私たちは彼らの政治的分子にも非常に良く振舞った。あらゆる善意をもって、民主的フィールドで闘いを続けるためにあらゆる基礎を整えた。しかし、彼らが常に示してきた提案は、世界のどこにも見られない、一度言った事が次に言うこととかみ合わないアプローチの種だ。公正発展党(AKP)やAKP政権は、この不誠実な提案を議論するような輩ではない」と。

テロ組織の「政治的分子」が指すものとは何か?BDPだ!首相は彼らにとても良い対応を示し、彼らが民主的な舞台で闘争を続けられるよう、あらゆる基礎を準備したと発言した。それは良いのだが、3000人近いBDP党員がKCK(クルディスタン社会連合トルコ議会)裁判により投獄されている。非常に難しい条件下で臨んだ選挙の後、彼らの身の上に降りかかったことを知らない人はいない。選んだ候補者に問題がある中、AKPが選挙で負けた第6候補者に大慌てで国会議員録を渡して(彼を議員にし)、あまり「粋な」「ポーズ」をとらなかったのは皆さんが見た通りだ。
はっきり言うと、「政治的分子」に「とても良い態度が示された」とは、あまり現実味があるように思えない。首相のこれらの言葉はPKKだけにではなく、BDPへの『宣戦布告』であり、AKP-BDP間の対話の打ち切りの表明として受け取られることは明白だ。

■民主社会会議(DTK)からBDPへの打撃

これに対して、流血事件が起きたのと同じ時に、DTKはディヤルバクルで850人が参加したパーティのような会議で「民主的自治区」を宣言し、これによりBDPは困難な立場に追いやられた。もしくはこのようにいえるでしょう。首相の一斉射撃(演説)のさらに前に、DTKはディヤルバクルの「民主的自治区」宣言とともに、自身の構成下にあるBDPのトルコ大国民議会での役割に大きな打撃を与えたのだ。

DTKの「民主的自治区」宣言は、何であるかよくわからない「ラクダでも鳥でもない」類のでたらめ言葉だ。「トルコ大国民議会のボイコット」が続く中では、「民主的自治区」宣言の政治的結末は一つである。即ち「暴力の激化、流血、更なる命の損失が続く…」。また、別の言い方をすると、BDPが機能を失い、すべてのイニシアチブがPKKのものになるということだ。
このような状況は、昨日、首相が言った通りのことだ。「もし彼らが平和を望んでいるとしたら、やるべきことはひとつである。それはとにかくテロ組織が武器を手放すことだ。武器を手放さないでいるうちは軍事行動も止まることはないし、このプロセスが別の地点にたどり着くこともない。この国にもはやクルド人問題などない、この国にはPKK問題があるのだ、そしてクルド人系の国民の問題があるのだ。我が兄弟、トルコ人の問題もある。ラズ人の、ボスニア人の、アルバニア人の、グルジア人の、ロマの人々(ジプシー)の問題も…。」

■1990年代に戻ってしまったのか?

これは、1990年台に言われていたこととあまり変わりない。基本的な違いは、「心理的」なものである。2011年、強い自信を持ち、経済状況が好調で、国際的イメージもきちんとしたトルコがある。おそらく、首相は「戦争するならしろ」という方針で「PKK問題」を解決しようと考えている。どうなろうとも、もはや「クルド人問題」は残っていないのだから。
私の見解によると、これまでに起こったこと、また現在において、驚くべきことは無い。なぜなら、私は9ヶ月の間、政府関係者から、カンディルのPKKのリーダー、PKKを離脱した以前の指導者、PKKに反対するクルド人、BDP党員に至るまで、何十もの人々と何日も話をした。何千ページもの文章を読んで、トルコ社会経済調査協会(TESEV)から3週間前に発表された「山を降りる、PKKはどうしたら武器を捨てるのか?―クルド人問題の暴力からの浄化」というタイトルの100ページに渡る報告書を書いたからだ。

■この地点までは何度も到達

これらの作業から、今私たちの来た地点までは、これまでに何度も到達したということが分かった。私は問題の主要登場人物の考え方、問題の背景、当事者であるクルド人の心理、PKKの構造などを40年の間にこれ以上は学べない位に学んだ。

報告書は世間の関心を呼び、議論は続いている。1990年台のクルド人鎮圧政策を支持した退役軍人や反クルド人の急進的民族主義者たちからはこれといって批判はこなかった。唯一の例外として、PKKの「イデオローグ」として知られるムスタファ・カラスが、「AKPの視点」から書かれた報告書で、これは「AKPへの補償行為」だとして私を批判した。

しかし、イムラル島からオジャランが私に挨拶を送ると、その一週間後に彼らはこの報告書に肯定的になった。皆これを好きなように解釈すればいい。
トルコの国家機構の中にも、PKK内部にも、「両者」の間で解決に向けた歩み寄りの可能性が見えると、これを撃沈させる準備のある、「戦争の選択」を常に持ち続けようとする者がいる。PKKのいくつかの「地域外支柱」以外にも、ブルカイ氏が言うように「深層トルコ」にも、PKK内部にもいることは知られていることだ。こうした登場人物たちが常にトルコの歩む道に「謀略」を仕掛けていることも。

13と7人の若者がどうやって焼け死んだのかというのを明らかにさせることは、この謀略がどうやって仕掛けられたのかを理解するという視点からも特に重要である。
政治の常として、「謀略」を知りながら陥ろうとする人々を止める手立ては一切ない。
このように希望がなく、戦争が望まれない状態で、何をすべきかということに関心を持つ人々にTESEVの報告書をしっかり読むことをお勧めする。政府にもだ。

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( 翻訳者:奥 真裕 )
( 記事ID:23302 )